2013年3月24日日曜日

今更ながらの連絡です

ブログ停止中です。

理由として
①今までブログに書いているような内容を考える機会が減った
②そもそも書き尽くしたので、新たに書くようなことがなく目新しさがない

となっております。
「自分の思ったことをベースに色々と書くことで、思ったことの思考を深める」のがブログをはじめた理由です。
そして
①「新たに思ったこと」がない
②「今まで思ったのと同じカテゴリー」は書き尽くした
のです。
これは、「思考のチャンネルが広がってない」「新たに感じることがない」という状況をしめしているので個人的にはヤバいかなー、と思ってます。要するに成長してないってことなんで。

もし復活することがあれば、ブログテーマを変えるくらいしかなさそう。

2012年11月20日火曜日

本当の優しさとはなんだろうか

優しさとはなんだろうか。
誰かが傷ついていたら”優しく”声をかける、”優しく”慰める。
そのような人が世間一般でいう「優しい人」だと思う。

しかし、はたしてそれだけが優しさなのだろうか。
当たり障りのない、上辺だけの優しさをかけるのは本当に”優しい”といえるのだろうか。



  • 上辺の”プラス”だけで成り立っている人間関係

世の中の人間関係は”プラスイメージなこと”で成り立っている。
逆に、”マイナスイメージこと”では成り立ってない。
・・・表面上は、ですが一応そういうことになってます。

つまり、優しさや助けあいといったような”プラスイメージ”なことで成り立ち、辛辣な言葉といったような”マイナスイメージ”では人間関係は成り立ってないし、そもそも成り立たない。

そんな”プラスイメージ”で成り立っているからこそ、”マイナスイメージ”なことをそこに投げかけることができない。
そして、物事の解決方法として”マイナスイメージ”なことが出来ないことも示している。


  • ”プラス”だけでの限界

しかし、”プラスイメージ”なことだけでは解決できず、”マイナスイメージ”なことでしか解決できない問題も多いのではないだろうか。

例えば、何かに悩んでいつまでも踏み出せない人がいるとする。
周りの友達は「大変だね」「何か手伝えることがあったら言ってね」といったような優しいキレイな言葉やいわゆる”優しい嘘”で慰める。

が、「ウダウダ言ってんじゃねーよ、とりあえず動けよヴォケ甘えんなカス」と辛辣な言葉を投げることでその人が結果として”助かる”場合はどうだろうか。
(もちろん、それが正しい判断でなく、「追い詰めるだけ」となる場合もあるけれども)


  • 救った人は往々にして嫌われる

辛辣といういわゆるマイナスイメージを自分に与える言葉を吐けば、本人には嫌われることもある。
そして、本人だけでなく周りの”優しい言葉を吐いていた人”にも「あんなこと言わなくても・・・」「ひどいよねー」と連鎖的に嫌われることもある。
だけれども、本人は結果として”救われている”のだ。

  • 好んで嫌われようとする人なんていない。

みんなそれが適していないと明らかにわかっている状況でもプラスイメージな”優しい言葉”しか吐けない、吐かない
ひねくれた言い方をするならば、適している言葉は違う言葉だと薄々わかっていてもそれに気付いていないふりをして「自分が嫌われたくない」「面倒事になりたくない」という心理で”優しい言葉”を吐く。

一方で、「その人を”救う”ために適切な言葉を吐く人」というのは「嫌われる可能性があるとしても、それを考慮のうえで覚悟し、自分を犠牲にしてでも相手のために言う」
こういう人こそ、”真に優しい人”だと思う。

  • ただし、見た目は同じでも...

もちろん、「みんなが言えないこと言える自分かっこいー」だとか「自分の考えこそ正しくてそれを押し付けることで自分の正当性を認めたい」というような理由でそれをする人は「他人のためと見せかけて本当は自分のため」なので最高にクソだけれども。

  • 本当に大切なものは、目には見えない

じゃあそれをどうやって判断すればいいのだろうか。
それは普段の振る舞いしかない。
サンテグジュペリ著「星の王子さま」で、王子さまは『本当に大切なものは、目には見えないんだよ。』という。そして劇中の別の場面でキツネは『言葉は誤解のもとだからね。』とも言う。
言葉だけでは人の真意は見えない。辛辣な言葉は、言葉だけではただの暴言だ。そして、それが誤解へと繋がる。

だからこそ、目には見えない”振る舞い”から「ただ暴言を言っているだけなのか」、言葉の真意を探り「本当に相手のためを思って言っているのか」「自分のために言っているだけなのか」を判断するしかない。

  • 最後に。

そんな「真に優しく」「理解されずに嫌われる」人は誰に救われればいいのだろう
嫌われるのを覚悟の上で”自己責任”でやったのだから、本人は救って貰えない覚悟もあるのだろう。だけれど、それじゃあ可哀想だ。
だからこそ、そんな人を理解してあげられるような人になるべきだ
大多数に嫌われていても、数人でも理解しそばにいてくれればそれだけでその人の行動が救われると思うので。


【関連】
まぁ真に相手を思っていても、言いたいことが伝わらないと何の意味もないので、ちゃんと伝わるにはどうしたらよいのだろうか。
という昔書いた記事がこちら


2012年10月30日火曜日

結果が同じならば、想いは問われるのか




友人からの質問
意味を見出す為の活動か、活動から意味を発見するのか、どちらが良いのか。
能動的に動くのか受動的に動いての、価値・意味なのか。
はたして、動かないにしても出会い的な価値・意味を軸にするのか。はたしてどれが価値ある価値なのでしょうか?
得るものを得たいからした活動と、活動をしたいから活動して得た物の違いを知りたい。
例えば、人を助けたいからしたボランティアによって得た内定と内定が欲しいからしたボランティアみたいな。
どちらも得た内定ってことは変わらないし、人を助けた事実は変わらない。


で、自分なりに思ったこと。

結果は確かに同じだから外部から見たら(結果の質が同じなら)違いはない。 そういう意味でどちらが"良い悪い"は無い。 ただ、一感情論として言うならば動機が不純なのは生理的に"嫌い"
例えば、助けたいからボランティアという、"助けたい"という純粋な想いでやってる人に対して、"内定のため"という不純な動機で同じことをしてるのは前者の想いを踏みにじってるようで嫌い(内定のためを不純と言っていいかは知らんが)。

だから正直、個人の感情論でしか言えない問題で正解不正解はないのではないだろうか。
24時間TVも批判はされど、募金で助かる人からしたら助かっているし。 

ただ、結果が同じ質ならばとはじめに書いたが実際は細部の質が違うような。手段と目的が歪められた方(例だと、内定が目的)は極端な書き方すると内定という括りでしか活動しないし、本物の"ボランティア"には劣って採用側が求める"ボランティアしてる人"とは別物になるし、3K(きつい・きたない・きけん)はやりたがらないから邪魔になるし、みたいな。
それによって、真剣にやっている人も真剣じゃない人といっしょくたにされた評価をされてしまい、場合によっては嘲笑の対象にされることもままあるし。

まぁとりあえず、導入においてはなんでもいいと思う。内定のためでも実際に体験することでボランティアに目覚めることもあるし、不純でも助かる人がいるのには変わらないし。
だから、こういう問題って色々な要素が絡むし難しい。
さらに言えば、本気かどうかなんて他者が判断できないことだし。

つまり、非難し糾弾することはしてはいけないけれども、個人的には何か嫌だ。
動機はともかく結果によって助かっている人もいるから、一個人のエゴ止まりだからこそそのような言い方しかできない。


でも、やるならばプロ意識・・・とまで言わないが、真剣さを持って欲しい。
サークルの延長感覚ではなく、真剣に。
そう切に願う。



2012年10月27日土曜日

今後この国で僕達若者に未来はあるのか



個人的メモ記事。表面的知識です。

日本の社会システムは往々にして高度経済成長とかバブル期に作られたものが残っている。
そのため、”経済成長がある・人口が増える”ことを前提に作られているので、それらがない現代では不備が生まれている。

では、何故それが是正されないかというと、(政府の腰が重いとか色々あるが)そのままのシステムの方が権力者からしたら都合が良いから。
権力者というのは要するに日本のトップにいる人、つまり年長者。
そして、人口が逆ピラミッド型であり年長者がマジョリティである日本では年長者の方が発言力も数もある。と、いうことは選挙では年長者が圧倒的に有利。そのため、年長者優遇にした方が選挙では有利なので政策なども年長者有利になる。逆説的には、若者優遇にすると選挙で不利。

この先の国を担う若者に未来のない国には未来はない。が、日本が潰れた頃には老人は死んでいたり既に生きれるだけの貯蓄などがあるから将来国がどうなろうが関係ないのだ。無責任。

このあたりの「年長者のための社会システム(政策)が作られる理由」である選挙を何とかしたら今後まだ日本に未来はあるのではないかなぁ、とか考える。
例えば、「若者の政治離れ」が問題視されているが、若者の利益になる政策は叫ばれないから投票しても無駄、投票しても若者は数で負けるから結局無駄、という無力感から若者の投票率の低下が起きているのではないかと。よくいう「政治への無関心」は、周りをみているとそれなりに学がある層はちゃんと関心があるし体感的にはそこまでない(というか今までと同じ程度)と思う。投票をしないだけ。

だからよく言われている「世代による一票の重さの格差」を是正する仕組みを何とか作れば多少は変わる。
若者の一票が無力ではないようにしたら、政治家も若者へと目は向けるし投票率も増える。
例えば「基準となる世代より人口が1/2の世代は2票になる」「政治家は50歳未満のみにする」といったような馬鹿正直な世代間闘争なようなシステムを作ろうにも、繰り返し述べているように、年長者が相対的に権力が下がるシステムの実現は数で負けるため難しい。
なので、上手く年長者にも旨味がありつつ若者のためになるような攻め方をするしかない。

ここで一番ポイントとなるのは一番数が多い団塊の世代。彼らを味方につけたら強い。そして、彼らは定年をしたとはいえまだ死ぬには時間がある。
例えば、年金だけれども年金は現在賦課制をとっている。人口が増えることを前提とした制度なのでこのままでは破綻するし、若い世代は払った分より低い額で返ってくる。団塊の世代は払った額よりも返ってくるので一見賦課制の方が彼らには有利だが、積立制にした方が賦課制よりも返ってくる。
さらにいえば、年金制度自体が破綻したら、払った金額すら返されるか危うい。
そのため、若者にとって利益があるし、団塊にも利益がある。このようなものからこのような面を前面に出し訴え、彼らを味方につけるのが現実的な若者措置の手段ではないかなぁ、と思う。

他にも何かそのようなものや、何かと絡めたらこのようになるようなことってないですかね?
とりあえず、しばらくはこのあたりを探ってみるつもり。
世代間闘争を煽ってもしょうがない。
と、いうか若者が勝てるわけがない。

2012年10月4日木曜日

ホンモノとニセモノ。誠意と欺瞞。意志があるかないか。

自分なりに思う、『正しい行動』。
しょっぱなから言うと「意志が”ある”か”ない”か」が基準。




  • 世間⇔自己




「世間一般で”これをした方が良い”とされているからする」、これは自分の頭では考えてなく、行動の背景が世間というあやふやなものからきている。
そこに自己は入っていないので、意志は介入しない。”世間の操り人形”と言ってもいいだろう。

一方で、「自分が何かに対して問題意識を持った。そしてそれを変えなければいけない」そう思って自分の中の問題意識を元に行動した場合、これは行動の背景が自己といえる。
自分のしたいからした行動が”たまたま”世間で良いとされる行動と合致したというパターン。


  • 意志を強固にするもの
ただ自己を背景にするだけではまだ意志のエネルギーが弱い。
弱いというより、洗練されてないと言った方が正しいのかもしれない。
ではより洗練されるにはどうしたらよいのか。

それは現実と擦り合わせることだ。
どうしても意志の初めの方は現実とかけ離れた理想を目指している。
そのため、行動をし、現実と擦り合わせ絶望や挫折を通して色々と考える。考える過程で自分の考えや内部の底まで考えさせられるので洗練化される。そして同時に、絶望や挫折といった気持ちをかかえ、ときには諦めつつも「それでも俺はやりたい!」という強さを手に入れる。
それこそ確固たる意志ではないのだろうか。
逆に、そこで放り投げてしまうのならば、そこまで問題とは思っていなかったともいえるのではないだろうか。

また、これはスタートが”世間”での行動だとしても、絶望や挫折を通すことで強制的に自分の問題へと変化しざるをえないので、結果的にはスタート地点は違えど「自己を背景とした人」と変わらない正しさとなる。


行動に意志が伴うからこそ、様々な苦難も乗り越えて行動できるし綺麗事以外にもちゃんと目を向けられる。そのようなものが『正しい行動』ではないのだろうか。





↓↓↓ここからただのオタによる余談↓↓↓



この記事は以前書いた「自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね」と同じカテゴリーのことに対し、新たに思ったことを書いた補足的内容となってます。
これを書いたとき、小説「偽物語」(少し前アニメ化されてた)を読みなおした直後だったのでちょっと影響されています。

この偽物語という小説は<物語シリーズ>というものの3作品目に当たります。
このシリーズのテーマは「正義と偽善について」だと思ってます。
1,2作目(化物語・傷物語)は主人公の、中身の無い偽善な行動をする話。
3作目(偽物語)は、自分が中身の無い偽善をしていたことに気付く話。
4作目以降は、それをホンモノにしようと努力する話。
そう思ってます。
で、たまたま似たようなことを感じ、ちゃんとまとめてあるブログがあったのでリンクをしておきます。まぁあのシリーズ読むなり、アニメで観るなりしてないと読みづらいかもしれませんが、この方のまとめ方が上手いので読んでなくても伝わるものは大きいと思います。

◆阿良々木くんがヒーローになるまで◆(←始めの方はあまり関係ないです)

今アニメやってる「ココロコネクト」シリーズも小テーマのひとつとして同じようなものはあるかな。「自己満足野郎」。・・・ちゃんと向き合って処理するのは8作目だけど。

「私は○○をしています!」と胸を張って言うことに後ろめたさはないのか


自信というものがある。それが僕には欠けていると言われることがままある。
実際のところ、「根拠のない自信」は欠けている、と認識している。

今回縁があってあることに参加することになりそうなのだけど、参加者を見たら名前を聞いたことがあったり実際会ってすごいなぁと思った同年代の人がチラホラ。
プロフィールを見てみると、案の定それを裏付けるような『遊び』ではなく本当に問題意識や自己を持って何か活動をやっているようだ。

そして、ふと自分もプロフィールを書くことを想定して思った。
僕には書けるようなことがない。
いや、厳密にはあるにはある。が、書くに当たって「本当にこれは書いていいのか?書けるほどその活動を本気でやっていたのか?結果は出せたのか?所属しているだけなのではないのか?」そういった疑問から、プロフィールとして記述することに後ろめたさと抵抗を覚えてしまい書くことに躊躇する。

とりあえず中身が伴わなくても書いておき、そのうち中身を伴わせたら良いという考えの人もいるだろうがそういうことは「相手を騙している」ようでなんとなく嫌だ。


ただ、これは本当に「自信が欠けている」なのだろうか。
正直なところ、似たようなカテゴリーにいる同年代の大多数よりは出来ていると自負はしている。が、前述のような「本当にスゴイ人」より劣ってはいる。
あくまで、中レベルの上なだけで、上レベルではない、その壁を越えられてない。そんな自己認識。
自分の行動の比較は”上レベル”なので「できていない」と書く。

前述のプロフィール云々を正確に書くならば「書けるほど(スゴイ人のように)その活動を本気でやったのか?(スゴイ人のような)結果は出せたのか?」と、なる。
『足るを知る」なだけでこれははたして自信が欠けているとは違うのではないだろうか。
上を目指して歩いているのならば、上を見て頑張って追いつこうという気持ちは当たり前である。

そして、どうしてもこのような認識になってしまうならば、自分の後ろめたさを隠して(自分にとっての)嘘を吐くのは多かれ少なかれ、その中身のないものに満足してしまい、この向上心に繋がる認識を薄れさせてしまうことになるのではないのか。

だから、ちゃんと歩みを止めていないのであれば、「自分なりの、後ろ向きではない自己認識」をしているだけで「発言に自信が無い」と言われようと変に気に病む必要は無いのだと思う。
また「○○をしている」と後ろめたさ無しで言えるのであれば、他人に「やっていることの中身がない」と言われようと自分は自分なりの根拠を持って言っているので、それも気に病む必要はないともいえるのではないだろうか。

2012年9月24日月曜日

僕らの世代がこの先生きのこるには

「希望の国のエクソダス(村上龍/文春文庫)」を読んだ。
  

話としては、2002年にパキスタンにいる日本人青年が発見された。 「この国には何でもある、ただ、『希望』だけがない」と彼は言う。
そのため、「生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬を誇り、そういったものがあり、敵はいてもいじめるものやいじめられるものがいない」パキスタンに日本を脱し、現地人となじみ在住しているようだ。
 そして、彼の言葉に共感して全国の中学生が学校を捨て、インターネットを使い自分たちでネットワークを作り金儲けをし、自分たちの『希望の国』を作った。
そんな話。

 日本は経済的に行き詰まっている。そして、社会的にも行き詰っている。 しかし行き詰まり未来が見えないにも関わらず既存のシステムのまま子どもにもそのままの教育をしている。
 中学生グループの中心人物であるポンちゃんは「生きていくために必要な物がとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、(戦後のようなものがなく)希望しかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカで無い限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと想います。」と言う。
 そして、「子どもの場合ですが、とりあえず大人のやり方を真似るっていうか。参考にしていく以外に生き方を考えることができないわけで、要するに、(未来を示すことが出来ない、自身の無い今の大人は参考にできないので)誰を真似すればいいのか、みたいなことがまったくわからなくなっているわけです。」とも言う。 

親や教師といったような”大人”は「勉強をして、良い大学に入って、良い会社に入る」ことを教える。しかし、それは昔のように安定した社会・発展していく社会での話だ。
今の日本ではこの”大人が示す道のり”ではやっていけない、なぜなら前提である社会の様子が変わっているからだ。
 そのため、ポンちゃんは自分たちで今の社会に合う(中学生が求める)教育機関を作る。 繰り返すが、今の社会は終身雇用をはじめとした『バブル期に作られた成長ありきの社会の仕組み』をそのまま使っている。

 『希望の国のエクソダス』はもちろんフィクションの存在ではあるのだが、実際に僕達も”いまの社会に適した”社会の仕組みを使い様々な不備が起きている。
しかし、大人からしたらそれを変えない方が都合が良い。そして、就職難などの世代間格差といったように、それらのツケ、大人の尻拭いを社会的弱者である若者に降りかかっている。

 このような状況で僕らはどうしたらいいのだろうか、となるとやはりポンちゃんのように既存の社会のシステムとは違う社会を作り、そこにエクソダス(脱出)しなければいけないのではないだろうか。
と、いうよりそうしないと若者、ひいては日本の未来はないのではないだろうか。 今は、バブル崩壊後に産まれた僕らの世代が20歳を越えそれなりに力を示せるような過渡期である。
だからこそ、僕たちはこれからの日本、そして自分たちのために今までの”常識”とは違った何かを作り上げて行かなければならない。