2012年11月20日火曜日

本当の優しさとはなんだろうか

優しさとはなんだろうか。
誰かが傷ついていたら”優しく”声をかける、”優しく”慰める。
そのような人が世間一般でいう「優しい人」だと思う。

しかし、はたしてそれだけが優しさなのだろうか。
当たり障りのない、上辺だけの優しさをかけるのは本当に”優しい”といえるのだろうか。



  • 上辺の”プラス”だけで成り立っている人間関係

世の中の人間関係は”プラスイメージなこと”で成り立っている。
逆に、”マイナスイメージこと”では成り立ってない。
・・・表面上は、ですが一応そういうことになってます。

つまり、優しさや助けあいといったような”プラスイメージ”なことで成り立ち、辛辣な言葉といったような”マイナスイメージ”では人間関係は成り立ってないし、そもそも成り立たない。

そんな”プラスイメージ”で成り立っているからこそ、”マイナスイメージ”なことをそこに投げかけることができない。
そして、物事の解決方法として”マイナスイメージ”なことが出来ないことも示している。


  • ”プラス”だけでの限界

しかし、”プラスイメージ”なことだけでは解決できず、”マイナスイメージ”なことでしか解決できない問題も多いのではないだろうか。

例えば、何かに悩んでいつまでも踏み出せない人がいるとする。
周りの友達は「大変だね」「何か手伝えることがあったら言ってね」といったような優しいキレイな言葉やいわゆる”優しい嘘”で慰める。

が、「ウダウダ言ってんじゃねーよ、とりあえず動けよヴォケ甘えんなカス」と辛辣な言葉を投げることでその人が結果として”助かる”場合はどうだろうか。
(もちろん、それが正しい判断でなく、「追い詰めるだけ」となる場合もあるけれども)


  • 救った人は往々にして嫌われる

辛辣といういわゆるマイナスイメージを自分に与える言葉を吐けば、本人には嫌われることもある。
そして、本人だけでなく周りの”優しい言葉を吐いていた人”にも「あんなこと言わなくても・・・」「ひどいよねー」と連鎖的に嫌われることもある。
だけれども、本人は結果として”救われている”のだ。

  • 好んで嫌われようとする人なんていない。

みんなそれが適していないと明らかにわかっている状況でもプラスイメージな”優しい言葉”しか吐けない、吐かない
ひねくれた言い方をするならば、適している言葉は違う言葉だと薄々わかっていてもそれに気付いていないふりをして「自分が嫌われたくない」「面倒事になりたくない」という心理で”優しい言葉”を吐く。

一方で、「その人を”救う”ために適切な言葉を吐く人」というのは「嫌われる可能性があるとしても、それを考慮のうえで覚悟し、自分を犠牲にしてでも相手のために言う」
こういう人こそ、”真に優しい人”だと思う。

  • ただし、見た目は同じでも...

もちろん、「みんなが言えないこと言える自分かっこいー」だとか「自分の考えこそ正しくてそれを押し付けることで自分の正当性を認めたい」というような理由でそれをする人は「他人のためと見せかけて本当は自分のため」なので最高にクソだけれども。

  • 本当に大切なものは、目には見えない

じゃあそれをどうやって判断すればいいのだろうか。
それは普段の振る舞いしかない。
サンテグジュペリ著「星の王子さま」で、王子さまは『本当に大切なものは、目には見えないんだよ。』という。そして劇中の別の場面でキツネは『言葉は誤解のもとだからね。』とも言う。
言葉だけでは人の真意は見えない。辛辣な言葉は、言葉だけではただの暴言だ。そして、それが誤解へと繋がる。

だからこそ、目には見えない”振る舞い”から「ただ暴言を言っているだけなのか」、言葉の真意を探り「本当に相手のためを思って言っているのか」「自分のために言っているだけなのか」を判断するしかない。

  • 最後に。

そんな「真に優しく」「理解されずに嫌われる」人は誰に救われればいいのだろう
嫌われるのを覚悟の上で”自己責任”でやったのだから、本人は救って貰えない覚悟もあるのだろう。だけれど、それじゃあ可哀想だ。
だからこそ、そんな人を理解してあげられるような人になるべきだ
大多数に嫌われていても、数人でも理解しそばにいてくれればそれだけでその人の行動が救われると思うので。


【関連】
まぁ真に相手を思っていても、言いたいことが伝わらないと何の意味もないので、ちゃんと伝わるにはどうしたらよいのだろうか。
という昔書いた記事がこちら


2012年10月30日火曜日

結果が同じならば、想いは問われるのか




友人からの質問
意味を見出す為の活動か、活動から意味を発見するのか、どちらが良いのか。
能動的に動くのか受動的に動いての、価値・意味なのか。
はたして、動かないにしても出会い的な価値・意味を軸にするのか。はたしてどれが価値ある価値なのでしょうか?
得るものを得たいからした活動と、活動をしたいから活動して得た物の違いを知りたい。
例えば、人を助けたいからしたボランティアによって得た内定と内定が欲しいからしたボランティアみたいな。
どちらも得た内定ってことは変わらないし、人を助けた事実は変わらない。


で、自分なりに思ったこと。

結果は確かに同じだから外部から見たら(結果の質が同じなら)違いはない。 そういう意味でどちらが"良い悪い"は無い。 ただ、一感情論として言うならば動機が不純なのは生理的に"嫌い"
例えば、助けたいからボランティアという、"助けたい"という純粋な想いでやってる人に対して、"内定のため"という不純な動機で同じことをしてるのは前者の想いを踏みにじってるようで嫌い(内定のためを不純と言っていいかは知らんが)。

だから正直、個人の感情論でしか言えない問題で正解不正解はないのではないだろうか。
24時間TVも批判はされど、募金で助かる人からしたら助かっているし。 

ただ、結果が同じ質ならばとはじめに書いたが実際は細部の質が違うような。手段と目的が歪められた方(例だと、内定が目的)は極端な書き方すると内定という括りでしか活動しないし、本物の"ボランティア"には劣って採用側が求める"ボランティアしてる人"とは別物になるし、3K(きつい・きたない・きけん)はやりたがらないから邪魔になるし、みたいな。
それによって、真剣にやっている人も真剣じゃない人といっしょくたにされた評価をされてしまい、場合によっては嘲笑の対象にされることもままあるし。

まぁとりあえず、導入においてはなんでもいいと思う。内定のためでも実際に体験することでボランティアに目覚めることもあるし、不純でも助かる人がいるのには変わらないし。
だから、こういう問題って色々な要素が絡むし難しい。
さらに言えば、本気かどうかなんて他者が判断できないことだし。

つまり、非難し糾弾することはしてはいけないけれども、個人的には何か嫌だ。
動機はともかく結果によって助かっている人もいるから、一個人のエゴ止まりだからこそそのような言い方しかできない。


でも、やるならばプロ意識・・・とまで言わないが、真剣さを持って欲しい。
サークルの延長感覚ではなく、真剣に。
そう切に願う。



2012年10月27日土曜日

今後この国で僕達若者に未来はあるのか



個人的メモ記事。表面的知識です。

日本の社会システムは往々にして高度経済成長とかバブル期に作られたものが残っている。
そのため、”経済成長がある・人口が増える”ことを前提に作られているので、それらがない現代では不備が生まれている。

では、何故それが是正されないかというと、(政府の腰が重いとか色々あるが)そのままのシステムの方が権力者からしたら都合が良いから。
権力者というのは要するに日本のトップにいる人、つまり年長者。
そして、人口が逆ピラミッド型であり年長者がマジョリティである日本では年長者の方が発言力も数もある。と、いうことは選挙では年長者が圧倒的に有利。そのため、年長者優遇にした方が選挙では有利なので政策なども年長者有利になる。逆説的には、若者優遇にすると選挙で不利。

この先の国を担う若者に未来のない国には未来はない。が、日本が潰れた頃には老人は死んでいたり既に生きれるだけの貯蓄などがあるから将来国がどうなろうが関係ないのだ。無責任。

このあたりの「年長者のための社会システム(政策)が作られる理由」である選挙を何とかしたら今後まだ日本に未来はあるのではないかなぁ、とか考える。
例えば、「若者の政治離れ」が問題視されているが、若者の利益になる政策は叫ばれないから投票しても無駄、投票しても若者は数で負けるから結局無駄、という無力感から若者の投票率の低下が起きているのではないかと。よくいう「政治への無関心」は、周りをみているとそれなりに学がある層はちゃんと関心があるし体感的にはそこまでない(というか今までと同じ程度)と思う。投票をしないだけ。

だからよく言われている「世代による一票の重さの格差」を是正する仕組みを何とか作れば多少は変わる。
若者の一票が無力ではないようにしたら、政治家も若者へと目は向けるし投票率も増える。
例えば「基準となる世代より人口が1/2の世代は2票になる」「政治家は50歳未満のみにする」といったような馬鹿正直な世代間闘争なようなシステムを作ろうにも、繰り返し述べているように、年長者が相対的に権力が下がるシステムの実現は数で負けるため難しい。
なので、上手く年長者にも旨味がありつつ若者のためになるような攻め方をするしかない。

ここで一番ポイントとなるのは一番数が多い団塊の世代。彼らを味方につけたら強い。そして、彼らは定年をしたとはいえまだ死ぬには時間がある。
例えば、年金だけれども年金は現在賦課制をとっている。人口が増えることを前提とした制度なのでこのままでは破綻するし、若い世代は払った分より低い額で返ってくる。団塊の世代は払った額よりも返ってくるので一見賦課制の方が彼らには有利だが、積立制にした方が賦課制よりも返ってくる。
さらにいえば、年金制度自体が破綻したら、払った金額すら返されるか危うい。
そのため、若者にとって利益があるし、団塊にも利益がある。このようなものからこのような面を前面に出し訴え、彼らを味方につけるのが現実的な若者措置の手段ではないかなぁ、と思う。

他にも何かそのようなものや、何かと絡めたらこのようになるようなことってないですかね?
とりあえず、しばらくはこのあたりを探ってみるつもり。
世代間闘争を煽ってもしょうがない。
と、いうか若者が勝てるわけがない。

2012年10月4日木曜日

ホンモノとニセモノ。誠意と欺瞞。意志があるかないか。

自分なりに思う、『正しい行動』。
しょっぱなから言うと「意志が”ある”か”ない”か」が基準。




  • 世間⇔自己




「世間一般で”これをした方が良い”とされているからする」、これは自分の頭では考えてなく、行動の背景が世間というあやふやなものからきている。
そこに自己は入っていないので、意志は介入しない。”世間の操り人形”と言ってもいいだろう。

一方で、「自分が何かに対して問題意識を持った。そしてそれを変えなければいけない」そう思って自分の中の問題意識を元に行動した場合、これは行動の背景が自己といえる。
自分のしたいからした行動が”たまたま”世間で良いとされる行動と合致したというパターン。


  • 意志を強固にするもの
ただ自己を背景にするだけではまだ意志のエネルギーが弱い。
弱いというより、洗練されてないと言った方が正しいのかもしれない。
ではより洗練されるにはどうしたらよいのか。

それは現実と擦り合わせることだ。
どうしても意志の初めの方は現実とかけ離れた理想を目指している。
そのため、行動をし、現実と擦り合わせ絶望や挫折を通して色々と考える。考える過程で自分の考えや内部の底まで考えさせられるので洗練化される。そして同時に、絶望や挫折といった気持ちをかかえ、ときには諦めつつも「それでも俺はやりたい!」という強さを手に入れる。
それこそ確固たる意志ではないのだろうか。
逆に、そこで放り投げてしまうのならば、そこまで問題とは思っていなかったともいえるのではないだろうか。

また、これはスタートが”世間”での行動だとしても、絶望や挫折を通すことで強制的に自分の問題へと変化しざるをえないので、結果的にはスタート地点は違えど「自己を背景とした人」と変わらない正しさとなる。


行動に意志が伴うからこそ、様々な苦難も乗り越えて行動できるし綺麗事以外にもちゃんと目を向けられる。そのようなものが『正しい行動』ではないのだろうか。





↓↓↓ここからただのオタによる余談↓↓↓



この記事は以前書いた「自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね」と同じカテゴリーのことに対し、新たに思ったことを書いた補足的内容となってます。
これを書いたとき、小説「偽物語」(少し前アニメ化されてた)を読みなおした直後だったのでちょっと影響されています。

この偽物語という小説は<物語シリーズ>というものの3作品目に当たります。
このシリーズのテーマは「正義と偽善について」だと思ってます。
1,2作目(化物語・傷物語)は主人公の、中身の無い偽善な行動をする話。
3作目(偽物語)は、自分が中身の無い偽善をしていたことに気付く話。
4作目以降は、それをホンモノにしようと努力する話。
そう思ってます。
で、たまたま似たようなことを感じ、ちゃんとまとめてあるブログがあったのでリンクをしておきます。まぁあのシリーズ読むなり、アニメで観るなりしてないと読みづらいかもしれませんが、この方のまとめ方が上手いので読んでなくても伝わるものは大きいと思います。

◆阿良々木くんがヒーローになるまで◆(←始めの方はあまり関係ないです)

今アニメやってる「ココロコネクト」シリーズも小テーマのひとつとして同じようなものはあるかな。「自己満足野郎」。・・・ちゃんと向き合って処理するのは8作目だけど。

「私は○○をしています!」と胸を張って言うことに後ろめたさはないのか


自信というものがある。それが僕には欠けていると言われることがままある。
実際のところ、「根拠のない自信」は欠けている、と認識している。

今回縁があってあることに参加することになりそうなのだけど、参加者を見たら名前を聞いたことがあったり実際会ってすごいなぁと思った同年代の人がチラホラ。
プロフィールを見てみると、案の定それを裏付けるような『遊び』ではなく本当に問題意識や自己を持って何か活動をやっているようだ。

そして、ふと自分もプロフィールを書くことを想定して思った。
僕には書けるようなことがない。
いや、厳密にはあるにはある。が、書くに当たって「本当にこれは書いていいのか?書けるほどその活動を本気でやっていたのか?結果は出せたのか?所属しているだけなのではないのか?」そういった疑問から、プロフィールとして記述することに後ろめたさと抵抗を覚えてしまい書くことに躊躇する。

とりあえず中身が伴わなくても書いておき、そのうち中身を伴わせたら良いという考えの人もいるだろうがそういうことは「相手を騙している」ようでなんとなく嫌だ。


ただ、これは本当に「自信が欠けている」なのだろうか。
正直なところ、似たようなカテゴリーにいる同年代の大多数よりは出来ていると自負はしている。が、前述のような「本当にスゴイ人」より劣ってはいる。
あくまで、中レベルの上なだけで、上レベルではない、その壁を越えられてない。そんな自己認識。
自分の行動の比較は”上レベル”なので「できていない」と書く。

前述のプロフィール云々を正確に書くならば「書けるほど(スゴイ人のように)その活動を本気でやったのか?(スゴイ人のような)結果は出せたのか?」と、なる。
『足るを知る」なだけでこれははたして自信が欠けているとは違うのではないだろうか。
上を目指して歩いているのならば、上を見て頑張って追いつこうという気持ちは当たり前である。

そして、どうしてもこのような認識になってしまうならば、自分の後ろめたさを隠して(自分にとっての)嘘を吐くのは多かれ少なかれ、その中身のないものに満足してしまい、この向上心に繋がる認識を薄れさせてしまうことになるのではないのか。

だから、ちゃんと歩みを止めていないのであれば、「自分なりの、後ろ向きではない自己認識」をしているだけで「発言に自信が無い」と言われようと変に気に病む必要は無いのだと思う。
また「○○をしている」と後ろめたさ無しで言えるのであれば、他人に「やっていることの中身がない」と言われようと自分は自分なりの根拠を持って言っているので、それも気に病む必要はないともいえるのではないだろうか。

2012年9月24日月曜日

僕らの世代がこの先生きのこるには

「希望の国のエクソダス(村上龍/文春文庫)」を読んだ。
  

話としては、2002年にパキスタンにいる日本人青年が発見された。 「この国には何でもある、ただ、『希望』だけがない」と彼は言う。
そのため、「生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬を誇り、そういったものがあり、敵はいてもいじめるものやいじめられるものがいない」パキスタンに日本を脱し、現地人となじみ在住しているようだ。
 そして、彼の言葉に共感して全国の中学生が学校を捨て、インターネットを使い自分たちでネットワークを作り金儲けをし、自分たちの『希望の国』を作った。
そんな話。

 日本は経済的に行き詰まっている。そして、社会的にも行き詰っている。 しかし行き詰まり未来が見えないにも関わらず既存のシステムのまま子どもにもそのままの教育をしている。
 中学生グループの中心人物であるポンちゃんは「生きていくために必要な物がとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、(戦後のようなものがなく)希望しかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカで無い限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと想います。」と言う。
 そして、「子どもの場合ですが、とりあえず大人のやり方を真似るっていうか。参考にしていく以外に生き方を考えることができないわけで、要するに、(未来を示すことが出来ない、自身の無い今の大人は参考にできないので)誰を真似すればいいのか、みたいなことがまったくわからなくなっているわけです。」とも言う。 

親や教師といったような”大人”は「勉強をして、良い大学に入って、良い会社に入る」ことを教える。しかし、それは昔のように安定した社会・発展していく社会での話だ。
今の日本ではこの”大人が示す道のり”ではやっていけない、なぜなら前提である社会の様子が変わっているからだ。
 そのため、ポンちゃんは自分たちで今の社会に合う(中学生が求める)教育機関を作る。 繰り返すが、今の社会は終身雇用をはじめとした『バブル期に作られた成長ありきの社会の仕組み』をそのまま使っている。

 『希望の国のエクソダス』はもちろんフィクションの存在ではあるのだが、実際に僕達も”いまの社会に適した”社会の仕組みを使い様々な不備が起きている。
しかし、大人からしたらそれを変えない方が都合が良い。そして、就職難などの世代間格差といったように、それらのツケ、大人の尻拭いを社会的弱者である若者に降りかかっている。

 このような状況で僕らはどうしたらいいのだろうか、となるとやはりポンちゃんのように既存の社会のシステムとは違う社会を作り、そこにエクソダス(脱出)しなければいけないのではないだろうか。
と、いうよりそうしないと若者、ひいては日本の未来はないのではないだろうか。 今は、バブル崩壊後に産まれた僕らの世代が20歳を越えそれなりに力を示せるような過渡期である。
だからこそ、僕たちはこれからの日本、そして自分たちのために今までの”常識”とは違った何かを作り上げて行かなければならない。

2012年9月14日金曜日

日本人にとっての倫理の拠り所

遠藤周作の「海斗毒薬」という本を読んだ。


これは実際に戦時中に九州帝国大学で捕虜で生体実験をおこなった事件(wikipedia)を基に書かれたフィクション小説である。
戦時下という極限状態で人は心からの行動を取る。
そして、そのとき日本人の倫理はどうなるか。
倫理の行動規範は何なのか。
そんなテーマです。

知っての通り、多くの日本人は無宗教です。厳密には仏教とか神道ですが、意識的に・明確に信ずるという点では無宗教です。
信仰する宗教がある人は、行動規範・倫理規範は宗教(神)に基づきます。
では、信仰する宗教が無い日本人は何を行動規範・倫理規範とするのか。
この小説で述べている通り、日本人は倫理観を"世間"、別名"空気"や"集団心理"といったものに求めるように感じられます。
つまり、明文化された規範がない。あやふやなんです。統一されてないのです。
そして、絶対的もので無い故、本人が内心正しいと思っていないことにも"周りに合わせて"従ってしまいます。
確固たる信念の拠り所が無いとも言えます。

「だから日本も特定宗教を信仰しよう!」などということは言いません。んな風潮を作るのは今更無理ですし。
では、何を拠り所にすればいいのかというとやはり"自分"ではないかと。
自分の考え(所謂"軸")をハッキリとさせていたら、何かが起きた時自分の軸に聞いてみたら行動規範がわかる。
そして、"軸"が確立されていればされているほど、それは絶対的なものとなる。

特定の信仰する宗教を持たない日本人は、自分の拠り所がないからこそ自分自身を拠り所とするべきではないでしょうか。

余談。
この不安定な日本では不安が付きまとう。
明日の見えない世の中で、頼れるものはない。
どう行動するのが正しいか教えてくれる絶対的なものがない。
なので、倫理観だけに限らず今後世の中を生きるためにも「自分の軸を持つこと」は必須にならざるを得ないと思う。
詳しく書いたの記事こちら→自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね

お金に対する罪悪感ってなにさ



よく「金を儲けることに対する罪悪感」という、「金=悪」といったことを聞く。
「金は悪だから、得るのは悪いことをしているようだ。」
「お金を持っている人は何か悪いことをしているのだろう。」
そのような言説がまかり通る。

しかし、はたしてお金は悪だろうか。
もちろん悪事に手を染めて入手したのならまだしも、努力し積み重ねた能力に対する報酬に近いだけなように思える。
例えでいうと、『練習をがんばった結果、試合に勝ちました。』『テスト勉強を頑張って良い点数が取れた。』これと何ら変わりはないのではないだろうか。

そもそもお金は善悪とか以前にタダの道具ではないのか。
何かをするに当たっての選択肢を増やす道具。
使いようによっては善にも悪にもなるが、そのものはニュートラルだ。


ところで、人間(日本人?)は欲を持ってはいけない悪いものとしすぎだと思う。
欲は自然と湧いてくる人間の根源的ものである。
否定したところでそれは"あるもの"なのだから後ろめたく思わなくてもいいし、ましてや無くせはしない。
私たちのすることといえば、暴走しないようにコントロールをする程度だ。
実際キリスト教では、「大食(暴食)強欲(貪欲)怠惰(堕落)色欲(淫蕩・肉欲)高慢(傲慢)嫉妬(羨望)憤怒(激情)」の7つを取って七つの大罪というがこれは別名"七つの罪源"というように、"罪そのもの"ではなくて"罪に導く可能性のあるもの"らしい。

人間の欲望というものはキリが無く、実際お金を手に入れたらそのお金を使って更にお金を得ようとしたり罪に手を染めようとしがちである。だからお金=悪という認識が強いのだろう。
だが、私たちは"欲"に対して持たないようにするのではなく、それをどう扱っていくのかコントロールする術を身につけるべきではないのだろうか。

2012年9月8日土曜日

ビジネス書より小説を読め!



先日このようなツイートを見た。



"人間"を作ったモノに対する学問だからこそ、"人間"を学ばないといけない。
社会は"人間"が集まってできたモノだからこそ書物だけでなく実際のモノをみないと学問に血が通わない。
「統計学上こうなる」のように"結果"だけを見るのでなくて、「こういう心理からこうなる」という感覚でわからないと、人の集まりで成り立つ学問を読み解くことはできない。

それと同時にMay_Romaさんは読書についても述べている。
古典などの小説や哲学書が何故大切かというとそれが"自分"を形作るから。
ビジネス書は技術といったような"道具"の使い方を学ぶモノ。
一方で小説や哲学書は道具を使う"人"を作るためのモノ。
いくら道具の使い方が上手くても使う人が駄目ならば、何の役にもたたない。
確かにビジネス書は「勉強になった」感が強い。けれど、ひどく即物的だし、指針や基礎を教えてくれる程度で手になじませるにはやはり実際に社会で使わないといけない。
そして、使うにあたって"人間"を知っていないと上手くなじませることはできない。
数学でいうところ、公式や公式の使い方は覚えていても問題は解けないのだ。

一方哲学書だとか小説はその場での「勉強になった」感は薄い。しかし、じっくりと自分の中で熟成されて"自分"を作る一核となる。そして、人を知る一核となる。

僕も、今の自分を作った原点を考えるとある長編小説がある。
そして、それらをこねくりまわしたり付け加えたりするのに哲学は非常に役に立って、それらの集大成として自分があるように思える。
現実と違い小説というのはある人間の心情が深くつづられて"見える"、そして(多くの古典小説、特に純文学は)それが話の核となる。そのため、ダイレクトに"ある人間"を知ることができる。

ビジネス書のような"技術"はあくまで"人間ありき"の存在なのだ。

リンク:哲学のすすめ

2012年9月5日水曜日

同年代でも活躍している人が出始めている



こんにちわ、長野です。23歳です。大学4年生です。
タイトルの通りですが、23歳ともなると同年代でも「あきらかにレベルが違うよなぁ」って人をぽつぽつ見ます。
ここで指している人は、例えばスポーツ選手だとかアーティストとか、そういういわゆる"プロ職業"というある意味「自分とは別の世界」の人ではなく、同じ"大学生"という枠組みで何かをやり初め積み重ねたもので活動している人、こういう人です。

知識量

彼らは、考え方の洗練さもだけれど「知識量」の違いに圧倒されます。
でも、その知識というのは大学生(20歳前後)ということを考えたら「数十年溜めてきた知識」ではなくて「ここ数年で溜めた知識」なんだと思う。
一方で、自分は大学に入学してから何をしてきたのかと、もしかしたら自分も同じようにしてきたら彼らと同レベルになってたのではないか、数年の差でこんなにもレベルに差が生まれるのか、そういう後悔混じりの思いがよぎる。

だからこそ、今は負けていても少しでも彼らに追い付けるように、数年後の自分が同じように23歳の自分の怠慢さに後悔しないように"今"を頑張りたいと思う。

行動

知識の量もなんだけど、行動も圧倒的に違う。
社会人顔負けというか、そんなようなことをしている。

例えば、最近Grow!という支援サービスで注目されているユリコカイという一橋大学の4年生の人がいる。
Grow!というサービスは8/23のリニューアルで「活動支援をしたい人がいれば月に500円からの"サポーター"になり、金銭的支援ができる」というサービス。
彼女は普段から国内国外の良質なwebサービスをtwitterブログで発信したり、かつてはセブ島からの輸入ビジネスをしていたのだけれど、最近Grow!のサポーター限定でwebサービス紹介の中でも特に良いものを公開するようになりました。そしてそれをやり初め2週間もたたず33人のサポーターを手に入れています。サポーター人数TOPが何人かはいまいち調べれてないのですが、この人数ってダントツなような。
ばーっと調べた感じ2,3位が20人前後、その下10人前後が数人、基本的には0か1人、って感じ。

なにが言いたいかというと、「500円を払ってでも彼女の発信する情報に価値があると思っている人がかなりいる」「それだけの信頼・評価される情報を今まで出してきた」ということ。
たかが33人と思う人もいるかもしれないけど、"大学生"が、"最近できた一部の人しかしらないサービス"で、"メディア露出もなく"、これだけの人を2週間弱で集める実績はすごいと思う。あと美人っぽいし。

他にも、そこそこオフの日も入れつつ月100万円以上を完全歩合制で金融商品を売る人や、通販サイトを運営して稼ぐ人などなど、普通にそこらじゅうにいて上げていけばキリがないです。

で、彼らがやってることってやろうと思えばやれる行動だけど、成果出すの難しいよね。さらに言えばそもそもそういうことしようとしないよね。
そういう意味で、"行動が凡人と違う"、そう思った。
だけれども、前述のように(成果はともかく)行動自体はやろうと思えば誰でもできるんだよね、やらないけど。
そういう行動をやろうとすることがまずスゴイわ。

で、何が言いたいわけ?

てことで、何かを恐れずにそういうような"行動"をしようかな、と。
で、成果を出せるように"知識"をつけよう、と。
そう思いました。
今までもそれは意識していたし行動はしていたけども、思えばまだまだ何かを恐れていたり、大したことやってなかったりでした。
幸いなことに、何かができる機会や場は今までの小さな行動の積み重ねから最近得ることができたので後は"成果"を出すことかな、と思います。

充電完了。再起動するにあたって。

ブログ、停滞してましたがちゃんとすることにします。

理由

今まで停滞していた理由は、生活環境の変化(研究室配備)や大学院入試とかタイミングというものもあったけども、あの時点での書きたいこと・書けることを書きつくしたからです。
7月くらいから意識的にインプットの量を増やすと共に、考えに対する明確な変化(パラダイムシフト?)が起きたりでそろそろ出力する時期かなー、と思い再び筆を執ることにしました。

このブログはアフィリエイトだとか、考えを普及させるだとか、そういった"記事を書く"ことが目的ではなく、何かに対して「まとまった結論」を自分の中で整理するために書いています。twtterは考えを出力しながらウダウダ言う"思考の過程"の場。
そのため、また行き詰まりを感じたら停滞するかもしれませんがご了承ください。

2012年7月16日月曜日

何も考えてない綺麗事を声高に上げるのはやめろ


世の中には綺麗事が多数あります。
「戦争はいけないことだから軍を今すぐ解体しろ」
「みんな平等」
「いじめられたら通報したらいいだろ、傷害だし公的機関だから教師と違って絶対動くから解決するだろ」
確かにその通りです。それそのものは正論です。
ただ、現実に則して考えるとどうでしょうか。

この世の戦争は"あり"ます。
何故あるかというと、起こす人たちのイデオロギーなり利権なりの欲や感情があります。
そのため、僕たちが人間である限り、さらに言えば動物である限り当たり前に持つ感情だから避けられないです。
「私は戦争をしてまで誰かを傷つけたくない」とある人は思っても、そう思わない人は必ず"います"。
世界中の人間の意思を統一する方法があるのならば話は別ですが、そんなもの夢物語です。

そんな夢物語な世界を作るための行動よりも、それらが"ある"ことを前提として、どうしたら良くなるかを考えるべきではないでしょうか。
理想は理想、現実は現実。理想に近づける現実を模索して動くべきではないでしょうか。
世の中には、理想"だけ"を声高に上げ、現実に当てはめたときのことを考えずそれを絶対的正義だとし押しつける人が多すぎるように思えます。

【補足】
軍は解体しろ→前述の理由でどこかの国は必ず軍を持つ。そのときに、軍を解体した国はどうやって自分たちを守るのか。

みんな平等→人の能力は平等じゃない。生まれも平等じゃない。高みに登ろうと頑張る人もいれば甘えてばかりで何もしない人もいる。さらにいえば、人である限り人より上にたとうとする者はいる。

いじめられたら通報→通報したあと、そのいじめられた子は周りからいじめられてないときと同じ環境にみれらない保障はあるのか。

2012年7月13日金曜日

哲学のすすめ



哲学というものがある。
カントだとかソクラテツだとか、そのあたりはみなさん名前くらいなら聞いたことがあるかと思います。
で、哲学というのは"小難しい"だとかそういうカタいイメージを持ってるかとも思います。

確かに言葉使いはいちいち難しかったりするけれど、よくよく読み解いてみると非常に体系立っているし、共感できる部分もあり面白いです。
twitterだとか書籍だとかでよくある"名言"というものが好きな人は絶対好きになりそう。

そもそも哲学というのはどんなものかというと、"人間の思考の学問"ではないでしょうか。
「頭の中で考えていること、そのことの答えを探す」、それが哲学。
「人殺しはいけないことなのか?」や「生きているってなんだ」といった、いかにも"哲学"なものから、「人に好かれるにはどうしたらいいだろう」といったみんなが普段考えていることまで何でも哲学っちゃ哲学。

さて、ここで何故哲学をすすめるかというと、人間である限り"考える"というのは必要不可欠であるから。
そして、その"考える"ということを深めて行くことで自分の軸を持てるし自立した"個人"ができあがり、みんなが幸せに生きられるから。(詳しくは『自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね』で)

人の考えというものはそれこそ千差万別です。しかし、それなりに共通する考え、世の中の法則というものがこの世にはありますし、似た考えを持つ人もいます。
"考え"を一生涯追及しつづけ言葉に表す、という行いをしてき、現代にも名を残しているのがカントやソクラテツなどの有名な哲学家と呼ばれている人です。
なので彼らの考えはそれなりにみんなが思っていることです。それに対する深い考察です。そのため、それに触れることで、自分の中のもやもやとした"考え"に近い言葉に対する答えを見つけられたりし、自分を形成することの手助けになるのではないのか、と思います。

そのため、僕はこの答えのない世の中に生きるみなさんに、哲学の勉強をすすめます。

2012年7月7日土曜日

理系に教養を!脱・専門馬鹿



東工大に新規設置されたリベラルアーツセンターの3人(桑子敏雄、上田紀行、池上彰)の対談連続記事
「日本の大学に、『教養』を取り戻そう」http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232963/
「頭がいいけど『世間』に弱い」理系の大学生http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232978/?P=1

どういう趣旨で設立されたかというと、
>「大学に教養教育は要らないのではないか? むしろ専門教育を重点化すべきではないか」という進められ方が昨今の大学教育で行われてきた。
>これからの「教養教育」とはどうあるべきかを考えることです。理工系学生の持つべき教養とは何か、そしてもっと広く、これから社会を背負っていく、若い人たちにとっての教養とは何かについても、どんどん提案をしていきたい
とのこと。


専門科目は何かを行う際にその"何か"そのものを学び使えるようになる科目
教養科目というのは、その"何か"を実際により良く使うための付加価値を学ぶ科目
と、いうのが僕の中のイメージ。

>専門科目だけを徹底的に習得させると、たしかに学生たちは「できる人間」になります。でも、この「できる人間」とは、あくまで「決められた枠組み」で「できる人間」のことなんですね。
なので、極端な話になるがいわゆる"専門馬鹿"となってしまい、専門のことの解は求められるがそれをこの社会でどう使うか、社会で求められている専門の使い方はどうなのか、ということにはからっきしで"動かない優秀な道具"となってしまう。
そのために、教養を学び"自分で動く優秀な道具"となるべきではないのか。"象牙の塔"という言葉があるように、学問という塔の中にだけおらず、僕たちが生きるこの人間社会と融合させるべきではないか。

今までの理系は専門分野のみで現象などの"自然科学的解"を求めるだけで良かった。
しかしこの解なき時代に、今後"自然科学的解"だけでなく、人文科学や社会科学的(一般教養的)な面も考えて複合して社会に活かすことが必要となってくる。

例を上げると、原発。原発の道具的使い方だけでなくそれがどう社会に影響していくかのモラルなどの面も求められる。また、自然科学の説明を専門家以外に"伝達する能力"も必要とされる(専門家の話わかりづらくて理解させる気ないよね)。

「"一般教養"は理系に今後今まで以上に社会的に必要とされるが現状ではその能力が足りていない」「今後は文・理を分担して"それぞれの専門家"になるのではなく文理融合のリベラルアーツが求められる」という趣旨の記事でとても考えさせられました。

もちろん教養"だけ"でも意味ないですけどね。
専門は道具、教養は"より良い使い方"。もちろん理系だけに当てはまるわけではないがやはり理系に今まで以上に必要とされているのは確か。

2012年6月20日水曜日

「われらの再生の日」書評

あらすじに惹かれたため気分転換にちょくちょく読み進め。
ブログ休止状態で文章あまり書いてなかったので鈍らないように書評。




第98回の直木賞(1988年)を受賞している阿部牧郎氏の新作「われら再生の日」。


全体の印象としては老人の"年の功”と、若者のバイタリティが融合したような主人公。
話はわりとテンポよく転々と物事が進んでいくので読みやすかった。また、主人公・矢部の男心が妙に生々しくそれでいてさっぱりとしているのでクスリとさせる場面も多かった。

ところで、老人は、確立された価値観や今までの経験から来る推測がある。逆に言えば、完成され凝り固まっているともいえる。
一方若者は、価値観が確立されていなく、経験も少ないため推測も甘い(夢見がち)。逆にいえば、何色にも染まっておらず素直で柔軟。
老人と若者にはこのような相反するステレオタイプがある。

この小説の主人公である矢部は60代後半の老人である。そのため、価値観が確立され、推測もなかなか現実的である。
そして、小説の冒頭に酔ったいきおいで風俗店に入り、風俗嬢である若者、ゆりあを触ることがまるで"青春のシンボル"を触ることで若さという生気が自分に伝わったかのように感じられ、遠い昔の自分が若かりし日の記憶が蘇る。
もともと矢部は好奇心が強い性格のようだが、”若さをもらったこと”をきっかけに若者の特徴である柔軟性を手に入れた。
つまり、老人の長所である経験からくる頭脳と、若者の長所である柔軟さが合わさったのである。

読んでいて思ったのは、全体のテーマとして『老人と若者の融合』があるのではないだろうか。

ただ、個人的に気になった点は老人・矢部は若者代表であるおさむに触れることで若者の良さを取り入れた成長があったが、若者・おさむは老人代表である矢部にふれることで老人の良さを取り入れた成長をしているのだろうか。
おさむは、いつまでもやや極端な描写である若者のステレオタイプそのままで、矢部の影響を感じない。最後に成長をしたような描写があるがそれはあくまで姉の死と震災に影響を受けた成長であって矢部はなんら関与していない。
老人と若者の融合をテーマとするならば「若者に触れて成長する老人」だけでなく、「老人に触れて成長する若者」も書いてほしかった。

ところで作中で主人公である矢部は小説家である。そして、「小説の目的は人間を描くことであるのだから、自分がよく知っている人間である「自分」を核にするのは当然である。しかも小説、特に私小説の醍醐味は、書いているうちにさまざまな発見があることだ。」と述べている。
そして、このような文章を書いているということはこの本の作者である阿部牧郎氏もこのような思いを持っているのは確実だろう。
このことから、この小説は作者の私小説に近いもののように思える。そのため、矢部が"現代人"と同じ事をしたときに感じたことは、矢部よりもやや年上ながらも"老人"というくくりでは同じである阿部氏(78歳?)が感じたことを書いているためか、とてもリアルで臨場感があり、「若者である私にとって当たり前のことでも、老人が触れたときにはこのように感じるのか」と感じることができ、とても興味深かった。

また、矢部は「そのような自分という核をもとにした物語ではなく、ストーリー重視な物語が現代の小説」と考察し、あえて核がない小説を書こうとする。と、いうことは作者である阿倍氏ももちろんこのような考察をし、この小説を「できるだけ核を排除したストーリー重視」なものにしたのではないだろうか。
作者の著書はこれがはじめてなので前作などと比較はできないのだが、この「われらの再生の日」を読むと登場人物が「"核"のもと動いている」というよりかは「与えられた役割を演じている」ように見えよくもわるくも厚みが感じづらかった(核がない)。また、ストーリーも転々としていた。つまり、この話は矢部の言う(=阿倍氏の考える)"現代小説"の特徴に沿っているのではないだろうか。

・・・と、推測するのだけれど前述のように比較ができないので今度阿倍氏の他の小説も読んでみようと思う。

ちなみに阿部牧郎氏の公式サイト(ブログ)はこちら
・・・つーか案の定コンテンツ含めて矢部と同じことしてるねw
色々なことに新たにチャレンジしていき、頭の柔らかい矢部はすごいなぁ、と思ったが矢部は架空のキャラクターである・・・が。前述のように矢部≒作者・阿倍氏であるともいえるので矢部に感じたことはそのまま阿倍氏にも当てはまるのだろう。すごいな、と素直に思える。自分も80歳になったときに柔軟に世の中の色々なことにちゃんと触れて吸収できるような老人になりたいと思う。

2012年6月11日月曜日

一時休止

今更ですが、大学院入試が目前にせまってるのでその間停止させてます。
早くて7月2週目、遅くて9月には復活できるかと。

2012年5月29日火曜日

自分が住んでいる国に対して還元しなければいけないという責任が僕らにはある?



僕らは生まれながらに責任を持つ。
例えば、育ててくれた親、友達、先生などなど...
しかし、案外忘れがちなのが『国についての責任』。

道路などの交通機関、警察などの治安維持、医療保険などの福祉、学校などの教育機関などなど。
生活において必ず国から恩恵を受けて僕らはこの日本という国に住んでいる。

これは"国"が公共政策として"日本国民"の"税金"を利用して作られている。そのため、それらを機能させる税金の大元は日本国民であるため、日本を良くすることでその恩恵を社会に還元する絶対的責任が日本に住んでいる限りある。



・・・という話をこの前聞いた。
確かに税金を使ったものを僕らは利用している。
ましてや、僕は小学校中学校高校、はてには大学まで公立なので恩恵を多くもらっているから余計にその責任はあるのだろう。
(国公立はだいたい3/4ほどが税金で賄っている、ちなみに私立は1/2くらい。国公立の理系や旧帝国大学はさらに割合が増える)


納得できるし、もっともな話だ。
ただ、個人的には何か違うと思う。
違うという言葉も何か違うわけだが、少し違和感を覚えた。


「国のお金を使って恩恵を受けている」という感覚が薄い。「税金は勝手に取られるもの」「私立大学より国公立大学の方が安い」「道路などは自然に与えられているもの」という感覚に近い。
そのため、この話を聞いても「あー、ありがたいっす。どもどもwww」くらいは思っても"絶対的責任"とまではどうしても真にせまって感じられない。

本来持って当然で、"絶対的義務"なのだろうがこのような感覚なので、繰り返しになるが何か違和感がある。

更に言えば自分が払っている税金も勝手に取られている感覚で、何かに利用されている感覚が薄い。そのため"税金を利用して僕らは生きている"と言う実感がない。


これはわりと一般的な感覚なのだろうけどやはり持たないといけない感覚なんだろうなぁ、でもなぁ。というゆとり世代のジレンマでした。


【余談】
この感覚が蔓延しているから世の中の人は税金を利用したこと、特に政治への感覚が薄くなってるのかなぁとか思ったり。

【余談その2】
この僕の感覚はようするに、"国への帰属意識が薄い"ということなのだろう。
近場の友人や家族へのコミュニティに属している感覚はあるが国にはない。
世代論の話を読むと若い世代になればなるほど、友人などの近場のコミュニティ、つまり横への帰属はあるが、会社や学校、国など大きなもの普遍的なものである縦の帰属意識が薄いらしい。
そのため、今後この感覚はさらに蔓延していくのではないかと思った。




【余談その3】
国への帰属意識はなくても近いコミュニティへの帰属意識はある。
だから、その近いコミュニティを大事にし恩恵を還元することは、国民全部といわないまでも"国民の一部"に還元することとなる。ならば、それは最終的に国に還元していることにもなるような気もする。

【余談その4】
俺「リバタリアンってどう思います?」
その人「あいつらはクズ。」


2012年5月13日日曜日

原発全停止

今更な話題。

枝野経産相「関西電力管内の計画停電計画を」
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120503-OYT1T00816.htm?from=top

原発42年ぶり全停止 今夏も「節電列島」
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20120506-946158.html

原発が子どもの日、5月5日に全て停止することになった。
さて、これはどうなんだろうか。

極端な例だが、こういう意見がある。
『脱原発のために生活レベルを落とすこと、たとえば江戸時代並みに戻すことは可能でしょうか?』
http://togetter.com/li/287840

原発停止の一番言われることが「子どもの将来を守る」。
たしかに原発は事故が起きた時今回のような被害が起きる。
ただ、原発を停止させると、「原発を含めた電力生産量を前提とした今の社会システム」が成り立たなくなる。
その例として計画停電などが起きているわけだけど、成り立たなくなった社会システム、例えば上記のリンクのような"江戸時代並の生活"は本当に"子どものため"になるのか。
さらにいえば、現代社会の進化において電気は必要不可欠である。
世界中の国より進化のスピードが遅れてしまう。ということは、日本という国が没落するのが早まる。
そうなると、それこそ"子どものため"にならないのでは?
原発の分をクリーンな自然エネルギー発電に代えれば良いなどというが、自然エネルギー発電はそれはそれで問題があるということを認識しての発言かどうかも不明である。
※昔まとめたのでデメリットはこちら参照→風力発電のデメリット太陽光発電のデメリット

というか、こういう人らはもし自然エネルギーのデメリットが原因で何か起きた時に原発のようにまた「騙された」とか主張すると思う。


なので、感情や想いも大切だが、現実的に考えてみて、想い・現実両面のメリット・デメリットどちらも考えたうえでスタンスを決めて欲しいと思う。
ちなみに僕は、原発を今は停止をさせず徐々に自然エネルギー発電に移行派です。
まぁ原発廃止することで、自然エネルギー分野へ資金などの後押しがきやすくなり技術革新が起きる可能性もあるけれどあくまで"可能性"だからなぁ。

2012年5月9日水曜日

議論するということ



議論というものがある。
このときに心がけておかないといけないことは"他人の主張を汲む"ということだと思う。
相手がどういう立場にあり、どういう意図でその言葉を発したか。
自分とまったく異なる意見でもできる限りそのあたりのことを考え、理解しようと試みる。
しかし、世の中には他人の主張を汲まず、自分の中の勝手に定義した言葉のまま、言い返す人もいる。

そのような場合、大抵議論がズレる。
そもそも、相手の意見を汲まない、つまり聞くつもりがなく"言いたいことを言いたいだけ"な状態なのでそもそも議論が成立しない。
言われた相手は、言葉を変え主張を再度繰り返す→相手は聞かない→言葉を変え主張を繰り返す→(以下ループ)となってしまい、何も議論は進まず平行線。
議論のための議論の時間だけが浪費されていく。












僕は反対意見にせよ、議論というものは好きだが、お互い言葉を組み合わない限り何も生まれない。
議論というものの僕の中のイメージは、違う価値観同士を組み合わせ共に積み上げ作っていくことだ。
意見を汲まないというのは、組み合わせ部分を探さないことなので積み上がるわけがない。
議論は"勝ち負け"ではないのだ。
共に異なる意見を擦り合わせ、新たな価値観を生みだす共同作業である。
それは、あるひとつの命題と、それに反対・矛盾する反命題との二つの相反する命題を、互いに否定しつつも生かして統合し、より高次元の段階である総合命題を導くヘーゲルのいう弁証法に近い。


また、議論に感情論を挟むな、とよく言うがそれはヒートアップしがちになるから相手を汲む気がないことが理由のひとつ。
"論理"という解きほぐすことで理解しやすくなるものではなく、個々の感情という汲みとりづらいものが提示されるため議論がしづらいないのが理由その2ではないかな、と思う。


ちなみに、余談だが「○○のくせに偉そう!」「性格が悪い!」などと言ったような、いわゆる"人格攻撃"というものは議論そのものと何も関係がない。
にも関わらず、自分の意見を否定されるとすぎに"自分を否定された" "敵対行動を取られた"と捉え、やっきになって相手の主張を汲まないどころか人格攻撃に走る人がときどきいる。
特に、"自分"というものに等しい"感情"で主張をする感情論に対して反論されるときによく見られる。

まぁ正直、議論に限らずにこれは会話をするときの当たり前の礼儀なわけだけれど。
会話は普通にできるのに、議論となると"相手を打ち負かす"という考えが強いのかできなくなる。
なんにせよ、人と人が言葉を交わすときならばどのような条件のときも"相手の話を聞く"、それが一番大切なことだと思う。

2012年5月6日日曜日

ノマドって言葉最近流行ってるよね





夢持てぬ若者、収入・年金・仕事「不安」8割
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120504-OYT1T00159.htm

15~29歳の8割以上が、仕事で十分な収入が得られるかどうかや、老後に年金を受け取れるかどうかに不安を感じていることが3日、政府の2012年版「子ども・若者白書」の原案で明らかになった。
少子高齢化が進み、雇用情勢も依然、不安定な中、若い世代が将来を見通せずにいる実情がうかがえる。政府は白書を6月上旬に閣議決定する方針だ。




とのこと。
「大企業でも今の世の中"安心"かどうかはわからない」とはよく言われていること。
大企業という"安心・安定"の殻に守られる、それで今まではまかり通っていたが今はその殻自体が安心・安定かわからない。


このように"絶対的安定神話"が崩壊した中で、最近はノマドという言葉をよく耳にする。


ノマドとは、

「オフィスのない会社」「働く場所を自由に選択する会社員」といったワークスタイル。
満員電車や残業から開放され、自分の時間を増やす豊かな働き方として注目されている。
「ノマド」とは遊牧民のことであり、いつも決まった場所ではなく、カフェや公園、お客さんのオフィスなどでノートパソコン、スマートフォンなどを駆使しネットを介して場所を問わずに仕事を進めること。
「サードプレイス」という自宅でもなく、オフィスでもない、第三の自分の居場所で仕事を行う新しいスタイル。


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%DE%A5%C9%A5%EF%A1%BC%A5%AD%A5%F3%A5%B0


とのこと。





要するに、自分の好きなところで、好きな仕事を、好きな量だけする、といった感じ。
まぁ「そんな好き勝手にやりたい仕事だけ選べないわwww」とか厳密には違いますがイメージはそんな感じ。
一言で言うと、「フリーランス」。

この言葉が注目されている要因の1つとして、大企業の安心神話が崩壊したというのは大いにあると思う。

誰かが作った殻に依存するのは、安全というものを他者に託すので自分の力ではどうしようもない。
それならば、自分で殻を作った方が目を届かしコントロールすることができる。


ただ、この働き方は全ての責任は自分が負わなければいけないから、"なんとなく"ではできないし能力や才能もいる。
"遊牧民"というイメージとは違ってシビアな世界であるため世間では賛否両論・・・というか、否の方が現実感ある意見だから強いのかな。
シビアな世界だからこそ、夢見がちであまったれてんじゃねーよ、といった感じ。
だけれども、無責任な発言ではあるけど、この世に産まれてきたならば自分のやりたいことをやりたいようにやって自分の力で"安心安定の殻"を作ればいいと思う。
どうせ安心安定がない世の中、将来が見えないならば、自分で将来を作ればいいと思う。
もし失敗しても、自分の手で作った人生ならば、他者に安心を依存し崩壊に巻き込まれる失敗よりもましなはず。

まぁ実際社会はそんなにも甘くはないわけだけれど、将来日本がどうなるかわからないからこそ、ノマドという働き方に限らず自分のやりたいことをやりたいようにやったらいいんじゃないかなー、という社会を知らない大学生の無責任あまったれ理論。

2012年5月3日木曜日

思考を停止させること





さて、以前のブログ記事に関してのご意見。


『思考に至ったと書いているが、それは思考停止では。思考停止してることは悪くないが、それを意識していないことはまずいんじゃないかな』


『なんやかんやあって、「楽しかったらそれでいんじゃね」という結論』に関しての警鐘ですね。


「いや、停止してないつもりなんだけど・・・」と思ったが、よくよく考えれば、そこから変わることもあるだろうけど、能動的にさらに先への模索はしてなかったなぁと気づかされた。
最終段階だと思っていなくても、自分から進化するつもりがないならば結局"思考停止"といっても差支えはない。そしてそれに気づいていなかった。

意識していない思考停止の何が悪いかというと、進化がなくそこで止まってしまう、さらにいうと考えが凝り固まってしまうこと。

思考停止をしているという意識があるならば、「とりあえず今のところはこんな考え。まだ模索して変化させるよ。」となる。
ニュアンス的には"思考一時停止"って感じだろうか。

このように、記事に関してなんらかのフィードバックがあると色々と考えさせられたり気づきがあるから楽しいなぁと思う。


2012年5月1日火曜日

挫折続きの人生



突然だけど自分語り。
僕は高校のときは工学デザイン系を将来的にやりたかったので受験では九州の某大学を受けた。
で、落ちて浪人へ。
予備校は高校のやつらがいない代ゼミへ(同級生は俺ともう一人(知らない人)以外はみんな駿台)。
そこで友達も作らずに自分なりに必死に勉強をして再度受験をしたけれど結局受験失敗。
自分の県で滑り止めとしてはちょうどいいレベルって以外特に理由も無く出していた国公立中期日程の兵庫県立大学理学部へ入学。
工学部ならまだしも、理学部。
自分のしたい分野と重なる部分はほぼなく、腐っていたけれど工学デザインの道をあきらめきれないで3年次編入試験を受験することを決意。
大学の勉強などもあるので、4月までに編入試験合格のメドがたたなかったら潔く諦めるということで、しばらく必死に勉強(編入試験は次年の夏頃)。
で、まぁ4月になる時点でメドがたたなかったので潔く諦めた。

・・・と、いうわけでやりたいこと、つまり"夢"に関して必死で追いかけて挫折して、復活してということを3回やってます。

さて、そのあとまた腐った学生生活が再開するわけですが、夏くらいに色々あって
「何か目標がないと俺はずっと腐っているだけじゃないのか」

「大学でやる学問に興味はまったくないし、今は完全に宙ぶらりん状態。逆にいえば今なら何でもできるのではないか」

「どうせこのまま何もしたいことはなしで、頭も悪くて、ならば普通にこのままでいたら何も為すことなく、ただの社会の歯車で終わるだけではないのか。つまり、このままなら人生は詰んでいるのではないか。どうせこんな負け戦の捨てたような人生だし変な道でも失敗とか今更関係ないし何をやってもいいのでは」

「ていうかもう楽しかったらなんでもよくね」
という思考に至った。


大学受験程度で人生もう駄目ぽとか鼻で笑う人もいるかと思うけれど、自分の中で今に大きく繋がってる「失敗をおそれずにやってみる」「楽しかったら正解」というスタンスの出所は、この受験失敗挫折パレードにあると思う。


"楽しむ"という観点では「失敗をおそれない」・・・厳密には「将来どうなろうがどうでもいいや」というのは強いと思っている。
楽しさだけじゃ世の中やってられない。

例えば、極端でおおざっぱな例だが「やりがいを感じられるが、将来への不安と賃金の安さの中小企業」「やりがいを感じづらいが、将来への安定と賃金の高さ」の2つで就職企業をどうするか迷ったりする大学生も多いと思う。
楽しいと感じれる方へ行こう、とするならば中小を選ぶ。
しかし就職という、人生の重要な局面(ましては新卒という現代就活で重要なカードを使うし)ではどうしても「将来の不安」がネックになる。

そのときに、「失敗をおそれない」ならば「将来の不安」などどうでもいいので素直に"楽しさ"だけで判断できるので迷わずに中小企業にいける。

それは人によっては何も考えないで刹那的に生きているように思えるのかもしれないが、僕はこのスタンスで人生を謳歌しようと思う。

2012年4月25日水曜日

その人の価値がわかる瞬間

大学の仲が良かった女の子が突然持病で亡くなりました。

彼女は人当たりがよくてすぐ誰とでも仲良くなれる子で、友達も多くみんなに好かれていました。
亡くなった報せがあった日、多くの人が沈みこんだ表情をしていたし報せを聞いた瞬間泣き崩れる人もいた。
案の定、葬式でもほとんどの人が泣いていた。

想いの強さが涙と比例する、とは必ずしも言えないので泣いてないから想いが弱いというわけでもないが、少なくとも泣いていた人は想いが強かったはず。
つまり彼女は多くの人に想われていたわけだ。

どれだけその人が他人の大事な存在であったかは葬式でわかるのではないだろうか、と葬式に初めて参列して感じた。
そして、自分は今死んだ場合に多くの人に泣いてもらえるような存在であるのだろうか。

誰にも想われない生き方など、何の意味もないと思う。
ならば、どれだけ想われていたということがわかる葬式というものは、その人の人生の価値というものがわかる瞬間ではないだろうか。

だから多くの人に想われていた彼女の人生はとても意味があったし、良い葬式だったと思う。

2012年4月18日水曜日

何のために生まれて何をして生きるのか



「何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ」という誰でも聞いたことがあると思う某歌詞。
僕は「とりあえず楽しかったら正解」といったスタンスだから、答えとしては「楽しむために生まれて楽しみながら生きる」。

結局世の中なんて楽しんだものがちで、地位とか名誉とかそんなことにはあまり価値を感じない(楽しむための道具として肩書とか利用することはあるけど)

「地位とか名誉があるのを楽しいと思う人もいるのでは?」
と感じる人もいると思う。
じゃあなんで僕の場合これは除外なのかというと、「純粋な楽しいじゃないから」。
地位や権力は結局のところ他者がいて初めて生まれ、優越感だとかそういうことに由来している。更に言えば"他人発の楽しさ"だと思う。
それは"歪んだ楽しい"であって、"純粋な楽しい"ではないように思える。

僕はファッションで何かをしている人も嫌いなのだけれど、これも「本人が楽しそうにしているからいいのでは?」とも言える。
しかし、先ほどと同様に"ファッションでする"というのは純粋にその行為が好きなのではなくて"○○してる俺かっこいい"という他人あり気なものだと思う。だから、行為区分自体は同じことをしていても「周りにかっこいいと思われるからやっているか」「純粋に好きだからやっているか」によって自分の中での判定は違う。

「何故ファッションでやるのが嫌いなのか」ということを掘り下げると、「実際は楽しくないのに楽しいという」といった感じで嘘という歪みが生まれると共に、自分にも嘘をつき騙していることになる。他人を気にしてばかりいてそこに"自分"は介在していないように感じる。

「自分に嘘をついてまで、他人にかっこよく思われたいのか?というか、そんなに周りに流されてばかりで本当に楽しいのか?」
そんな気持ちが、ファッションで何かしている人を見るたびに思う。

ただ、ファッションでやってたとしても完全にファッションのみという人はいない。
例えば、「ボランティしてる私かっこいー☆」が(表面上はどうあれ)メインであったとしても、やはり「人を助けたい」という気持ちは必ずしもある。
だから"ファッション" "ファッションじゃない"と二元論で割りきれるものではない。
だから正直、バッサリと「お前は間違っている、やめろ!」と言い切ることもしづらい。(ボランティアだと「偽善でもなんでもされた側は助かる」という面も絡んでくるし)
そのあたりの自分の中の上手い落とし所は前からの悩み所であったりする。

世の中は二元論では割り切れないのだ。

2012年4月17日火曜日

自分なりに思うリーダーの役割


リーダーとか代表とかそういうトップの人の役割を自分なりにまとめた。
まぁグループのメンバーによっても変わるので、どの場合でも共通してそうなとこだけ。

・モチベ管理

メンバーのモチベーションをいかに初期の高い状態から下げさせないか、更に言えばあげられるか。
団体での活動の一番の敵はメンバーのやる気が下がり上手く機能しないことだと考えている。やる気さえあれば下手でもそのうち成長する。(もちろん下手のままにさせるとその人のモチベも下がることになるけど)


・道を示す

「どうやったらいいか・なにをしたらいいかわからない」という状況からいかに「どうしたら・なにをしたらいいか」を示す。
リーダー以外の人で、自分でそれを見つけられる人もいるが、やはりリーダーがそれを示すと"全体の"方向性が定まる。
そして、これは「なにをしたらいいのかわからない」というモチベーションが下がりやすい要因のひとつを消せるので前述の話にも繋がる。

・仕事を振り分ける

正直「道を示す」と似ているのだけれど、「~します!」となったときに誰にその仕事を振るか。
自分から進んでやる人がいるとしても、全員が全員とも限らない。その場合、「進んで挙手をしない・できない人」はいつまでたってもメインで動けない。
だから、そういうときのためにあえて「これは~やってね」と任せる決断をする。

・嫌われ役
まぁリーダーって立場上、偉そうな役割をしてしまうからどうしてもメンバーから愚痴が出てしまうこともある。
だけど、嫌われるのを恐れてみんなの意見を聞きすぎると動きが遅くなる。
みんなの意見を無視しろというわけではないが、適度に聞いて、指示を与えるという決断をしなければいつまでたっても進まない。だから、嫌われることを恐れない。(嫌われても構わない、というわけではないので注意。嫌われずに動かせれル奈良それにこしたことはない)

信頼を得る
信頼を得ないと何を言ってもあまり相手に響かない。信頼を得るには自分からメンバーより先にたって動いていることをみせるのが一番てっとり早い気がする。

・メンバーを観察する
メンバーの様子をよくみる。よくみることで、モチベーションが下がっている人には上げれそうなことを任せて処置ができるし、適正がわかることで振りやすい仕事がわかる。みんなの雰囲気で道を示すタイミングがわかる。「嫌われる」に関して、本当に嫌われているのか、軽い愚痴程度なのかがわかる。

と、こういった感じなのがリーダーの役割かなぁ、と軽くメモ。


【おまけ】
副リーダーの役割は大雑把に言えばリーダーの補佐。
リーダーにアドバイスしたり、役割についてリーダー外からの意見をリーダーに与えて助言したり、役割のための調査したり、リーダーが嫌われるのをサポートしたり。
基本的にはリーダー・リーダー以外が動きやすくするための潤滑油の役割。
あえて、舞台裏に徹しない役割を上げると「雰囲気作り」かな?

2012年4月13日金曜日

こころ(夏目漱石)書評。人間のエゴという本質を取り扱った現代にも通じる古典名作。


夏目漱石の「こころ」、高校1年のときに読書感想文ではじめて読んで以来何回か読んでいるけど「山月記」と共に個人的バイブル。

「こころ」でよく名言としてあげられるのは「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という"先生"の親友であるKが言った台詞。
僕も昔はこの台詞が一番好きで、今でも好きなのだが、久しぶりに読み返してみるとそれより感銘を受けた台詞がある。

「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな
鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんで
す。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に
変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」


タイトルの「こころ」が表しているようにこの小説は人間のこころを表した作品で、おそらくこの台詞が一番タイトルを表すのにふさわしいのではないだろうか。

"先生"は昔遺産の相続の関係で、かつては善人であった親戚に騙されてこのような人間にはなりたくないと考える。
しかし、その後"先生"は親友であるKと恋愛で争い、そしてKを出しぬき恋愛に勝った結果Kは自殺してしまう。
そして、"先生"は自分もあれほど酷い存在だと思っていた親戚と同じように、ある日善人から悪人となってしまったことに気づく。

これは、どんな時代もありえることで、例えば社会問題である"いじめ"とかでも「いじめられている子が可哀想だとは思うし、本心ではいじめたくない。だけれどいじめに加わらないと今度は自分がいじめらるからいじめに加わる」というのもその一種だろう。

このように、鋳型にはめたような絶対的悪人などこの世にはいない。しかし、ある状況では悪人となる。
逆に考えれば、鋳型にはめたような絶対的善人もいないのだ。

・余談
数ある中から"いじめ"を例に出したのは、これは大人だけではなく子どもという純粋な存在でも適用できる人間のこころの本質ではないのか、ということい適していたからである。
「一緒に騒がないとハブられる」という意味で「学級崩壊」でもOK.



2012年4月9日月曜日

自己顕示欲と善意の混じった助言


鼻が高くなっている人というものは、えてして人の話を聞かない。
というより、聞きたくないようだ。

「自分はこんなにも酔いしれているのに、痛いところをついて興を覚ますな!」といった感じの防衛反応なのか、聞く耳を持とうとしない。

結構こういうのに僕はイラッっとくる。
もちろん、「より良い方向に進ましてあげたい」という気持ちが先にあると思いたいが、ムカつくということは「俺はお前のために言ってやってるのに無視すんなよ」という自己顕示的な偉そうな気持ちも多少なりともあるのだろう。そして、偉そうというのが言外から感じられて余計に拒絶をされたのであろう。
勝手におせっかいを焼いて、考えを押し付けて、拒絶されたら勝手にムカついて。我ながら器が小さい。

そういえば「葉隠」の一節に「助言をするときは相手に合わせた言葉使いを。さらにいえば信頼を築き、助言を素直に聞いてくれる関係になって言うべきだ。伝わらない助言なんて自己満足だ」みたいな一節があったような気がする。
前回のブログ記事にも繋がるのだが、信頼あっての言霊というのは真理だと思う。
ということは、信頼が築けていないのに助言をした自分が悪いということになるんだろうなぁ。

と、頭ではわかっててもムカつくものはムカつく。
と、同時に明確な拒絶をされているわけでこっちもちょっと傷つく。
拒絶をされればされるだけ、いちいち自分の労力をさいてまで他人にかまけるのがあほらしくなってくるので、年々助言は避けがちになるし、他人へ絶望すると共に興味が薄れる。

そのあたりのことを受け入れてなお、葉隠のいうようなことを実績し助言できる人というのが、自己顕示欲のない本物なのだろう。

ただ、ディアドクターという映画であった台詞だけど「誰かが倒れそうなときについ反射で手を出して倒れないようにしてしまう」ように、自分のエゴとかそういうのを全く関係無しに「誰かを助けたい」という純粋な気持ちもあるわけで、そのあたりのことは変に色々な思惑をつけたくないし大切にすべき感情なのだろうとも思う。
そういうときはやっぱり、自分のエゴなのかと自問自答をしたり、またありがた迷惑な助言になってしまうと一瞬思っても、それを押しとどめてつい言葉が出ることもある。まぁ言葉が相手に伝わらなかったらやっぱり悲しいのだけれど。
そこでイラッとくるか、悲しいかが「本物の気持ち」か「自己顕示欲混じりか」の簡単な判別になるような気もする。


【余談】
こんな感じで偉そうと思い相手もムカつくんだろうなというTHE・自虐

言葉を言霊たらしめ影響を与えるには




人が人に何か伝える一番手っ取り早い手段は「言葉」である。
自分の中では「言葉」が人の表面部分を、「ふるまい」が内部を見られているように思う。
しかし、ブログやtwitterなどのSNSでの自分の表現方法は言葉の一種である文字に限定される。
そのため、自分の思っていることを相手にできる限り伝えるために文章力の向上、細かいニュアンスを伝えるための語彙を増やすことは今の時代必要不可欠に思われる。

さて、「言葉」というのはあくまでその人の思っていることの一部を喋ることで外部に出しているにすぎない。
言葉という具体的なものになっていない、自分でも認識できていない抽象的なもやもやとした考えというものも人間には多くある。
そのため言葉というものは思考の全てではない。
なので、相手に何か伝えるさいに補完として、先ほど言ったふるまい・・・さらに言えば人格が必要となってくる。

「言葉には力がある」というニュアンスで「言霊」という単語が日本にはある。
普通の言葉を言霊レベルにまで昇華させるには、いかに言葉に人格を乗せられるか、そして相手にその人格を評価させるかがポイントだと思う。

やはり相手に何らかの評価をされていないと、言葉に乗せた人格が門前払いされるので言霊にならない。
「良いことを言っているのなら誰が言っているかじゃなく、何を言ってるかだけを素直に見る」のが本来は正しいのだけれど、現実問題として、やはり「誰がいったか」とまではいわなくても評価されていない人が言っても伝わらないことが多い。

(余談ではあるけど、このあたりのことはF・ベーコンが唱えた、人間に発生する4つの偏見の種類のひとつに劇場のイドラに通じるけど参考1参考2
簡単に言えば、「偉い人・権威ある立場の人が言うのだから正しいはずだ」という間違った認識のこと)

だからこそ、「人を動かす」だとか誰かに影響させたいのならば人格は必要不可欠だと思う。
ただ、人格だけみせても動けない人が多い。
周りにすばらしい人格を持っている人がいて、それにひっぱられて行動に移す人もいれば移せない人もいる。
だから、その自分の人格への補完としての言霊に昇華された言葉を使うことが誰かに影響を与えるには必要なのかな、とか思ったりする。

2012年4月3日火曜日

武士道に照らし合わせて、死ぬということ、自分というもの


最近思うことは、日本人の心として武士道というものは理想とする生き方ではないかと思う。

道徳体系として「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」という一節で武士道は表されている。
このように、仁義あふれ、礼節があり、ストイックで、それでいて強く美しい。日本人的美的感覚の極限イメージであると思う。
僕もこのような生き方をしていきたいと思う。
生き方に関して個々の要素で語りたいこともあるが今回は死ぬことに関して。

山本常朝が書いた葉隠の有名な一節として、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉がある。


個人的解釈となるが、これは自殺することを推奨しているわけではなく、常にその日死んだものとして日常を生きよ。それならば選択を間違わないはずだ、ということをいっている。
つまり、死を日常の行動原理のひとつとして取り入れろと言っているのである。

そこで自分の人生が終わるのならば、自分で何かを選択したうえで死にたい。
選択することでそこに己を介在さえせ、日々を生きよということをいっているのではないだろうか。

ブログ記事『自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね』でも触れたが、流れるままというのは他人の意志に身をゆだね思考停止をしているだけで、己を介在させていない。
だから、死ぬということも自然死はしたくない。死ぬならば、自分の意志で死にたい。
さらにいうならば、自分が自分のまま死にたい。例えば、ボケた自分はもう自分ではない。今まで積み上げてきた「自分」を帳消しにしてできた、自分の姿をした他人だ。

切腹というものがあるが、あれは敗北のような西洋的な自殺ではなく、名誉を守るための自由意志の極限的な現れであると葉隠では書かれている。
そして、その自殺をいつでもできるものではないという現実から前述のように、常に1日1日毎日死ぬことを意識し生きるということ、死を人生の最後の1ピースとして自己を形成させて死をもって人生を完結させる、といったことで「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という一説がつけられているのではないか。

最後に、余談となるが麻雀漫画で「天」という漫画がある。アカギという天のスピンオフ漫画の方が有名だが、その『天』の最強人物であり『アカギ』の主人公である赤木しげるは天の最後でアルツハイマーの前兆が現れる。そして、完全にボケて「赤木しげるとしての自分」が消える前に命を絶つことを決意し自殺をする。


そのときの死を止めようとする人々とのやりとりは一読の価値があるので、その最終巻だけでも読めるので是非読んでみてほしい。というか最後3巻分の赤木の最期編は様々な人生観がつまっていて単純に読んで欲しい。
そういえば手塚治虫のブラックジャックで、“死に神の化身”の異名を取りながら安楽死を請け負う人物がいたなぁ。


「俺が俺を全うするために命がある。まず、自分ありきだ。だから、意識に霞がかかったわけのわからない状態でただ命を長らえるなんてことは愚の骨頂。俺にはその意味がわからない。肝心の俺が消えた命に、どんな意味がある……?」by赤木しげる

2012年4月2日月曜日

理科離れの原因って?


理科離れというものが社会問題としてある。
軽く検索をしただけでも学術論文やら理科離れをなくす会だとか、教育指導要項やらいっぱい出てくる。

科学館やサイエンスカフェという手法を理科離れ対策があるが、多くは「理科の楽しみを見せる」という手法を取っている。
この「理科の楽しみを見せる」というのもなかなか曲者で、楽しみを見せるだけというものが多いように思える。
それはまるで遊園地のようで、その場では科学の不思議などを見せれられので楽しいのだが、その先の「なんで?」には繋がらない。
ありていにいうと「科学者の自己満足」につきあわされているだけで「科学ってすごいなあ」で終わってしまう。
一番大切なことは「なんでそうなるの?」と思わせ「自分でやろう」と思わせることだ。

大量消費物のように、おもしろいだけで終わらしてはいけないのだ。
そのためには、技術の成果だけを提示するのではなく、これこれこうでこうなった、じゃあこうなったらどうなるだろう?という、いわゆるアソビの枠が必要に思える。
完成された結果だけではそこで終わってしまい発展しない。

そのためには、やはりどうしてそうなるのか、という科学的理論は必要不可欠である。それはいっけんして難しいが、数式などを使わずに大ざっぱでも簡単に説明をする方法はいくらでもあるはずだ。
それを提示している「本来の科学のおもしろさを伝える場所」が少ないように思える。

たしかにそれは手間がかかることではあるし興味をしめさないで即物的おもしろさしか見ない人も多いかもしれない。しかし、本質であるそれを省くのは提示する側の妥協でしかない。
それができていないから、「科学という手法を使っただけの、遊園地となにも変わらない場」がはびこる結果となったのではないだろうか。

そもそも、本来そこの下地を作るのに一番適しているのはやはりテレビであると思う。
だが、そのテレビ自体難しいものの説明をわかりやすく伝えるという義務を放棄し、イメージ戦略になっているように思える。
はじめから「科学とは難しいものなんでわかる人にしかわかんないだろ」という態度が目に見えるのだ。

例として、最近では東北大震災に伴い原子力・放射能に対して世間での関心が高まり、色々な情報がマスコミ等によって発信されている。
でも例えば、○○ミリシーベルトという言葉が頻繁に使われますが、なんとなく数値が高いと危険!という認識はあれどそれが何を表しているかはっきりとわかる人は少ないように思える。

つまり、何がどう悪いだとか、数値の意味だとかの説明を放棄し、なんとなくのイメージで放射能問題に対して考えさせてしまっているように感じる。

イメージだけで伝える方がもちろん作り手としては楽なのではあるが、繰り返し言っているように説明を放棄しているとしか思えない。
そしてそれによって、子どもだけでなく子どもに教える立場である親(大人)の理科離れ・・・むしろ理科アレルギーが進行している。

だから、理科離れに対してどうすればいいのか、と問われたならば「マスコミを変える、または科学館の意識を変える」と答えるようにしている。

2012年3月27日火曜日

クズ型自分の取扱説明書



僕は自分をどうしようもないクズだと思っている。
いくらやる前は気概があってもいざやるとなったらやる気が起きない。実際やってみえも3日坊主で終わってしまう
。しかし気概だけはある
そのため、「なんで俺はこんなにもクズなんだろう・・・と思うことがよくあった。

僕は大学受験で浪人をして代々木ゼミナールに行っていたのだが、代ゼミでも1、2を争う英語人気講師の富田一彦先生の授業を受けていたときに彼はこう言った
「どうしても自分の癖として間違うものは間違えてしまう。ならば、○○の類似系問題は自分は間違ってしまう、ということを受け入れて、いかに○○の類似系問題だと気がつける(チェックできる)仕組みを作って対処するのが大切だ。」

これはあくまで、受験問題を解くためのテクニックの話であるが、物事の何事にも当てはまると思う。
自分なりに拡大解釈したものではあるが、
「自分の癖として、○○の状況になったとき△△をしてしまう。ならば、下手に○○の状況のときに△△をしてしまわないように無駄な努力を繰り返すのならば、あらかじめ○○の状況になったときに△△につながらない一連の道を定めたら良い。」

仕組みとして僕は"外部からの強制力"を自分で作り利用する。
例えば、自分がブログを書くのがいつも3日坊主になるならばあらかじめ「毎日更新します!」とtwitterなりで外部に知らせる。そうしたら、見栄っ張りな僕は「書かなかったら「コイツあきやがった(笑)」と思われそうだなぁ」と思い、書かざるを得ない。

「毎日勉強をしたい!でも3日坊主になってしまう・・・」ってときは友人を誘って毎日勉強会を開くようにする。
そうしたら強制的に勉強をする場に行かなければならない。

そのようにして、クズから真面目になろうと無駄なもがきをせずに、上手く"クズな自分"を受け入れて、クズなりに対策を講じることこそがクズな自分の上手い取り扱いなのではないだろうか。

2012年3月25日日曜日

日本科学未来館に行って来た


東京のお台場あたりにある日本科学未来館に行って来た。
宇宙飛行士の毛利衛さんが館長をしており、通常の科学館は初年度から3年間ほどの入場者数は右肩上がりだがそれ以降は低下する、という中01年からの開館から常に右肩上がりという科学館。

中でも興味を惹いたのは、科学の交流をコンセプトとし、展示物をわかりやすく解説する科学コミュニケーター(美術館などで展示物を紹介してくれる人)や多くのボランティアらによる展示解説。
科学コミュニケーターとは、「科学は一般人にわかりづらい」というイメージが先行している中、一般人と科学者の橋渡しとし、科学をわかりやすく・興味深く紹介する役割なのですが、それを養成するカリキュラムがこの日本科学未来館では行われています。
ちなみに、ここがその人たちのブログです。http://blog.miraikan.jst.go.jp/

僕は、東日本大震災のときのマスコミのイメージだけの科学報道によって偏った知識による科学への反発をすごく感じ「一般の人にもちゃんと科学を理解してもらい判断するリテラシーが必要なのではないか?」と思い、そのときに色々調べていた関係で科学コミュニケーターという職を見つけました。
そのため、僕はこの職業にすごく興味があて、なりたかったこともあり、この科学館に一度でいいから行ってみたいと考え、今回東京に行く機会があったので行ってきました!

中は普通の科学館と違い子ども対象/大人対象のものに明確にはわかれておらず、文字だけではなく、ビデオや参加型、ゲームなどとなっており子ども大人どちらも楽しめるようになっていました。
また、常に15分程度の小規模イベントがあり、展示物を見る→イベントに参加する→展示物を見る というループを繰り返すこともできます。

展示物の中でも特に目を惹くのはGeo-Cosmos(ジオ・コスモス)と呼ばれる有機ELパネルを球状にしきつめて作った地球型巨大ディスプレイです。

これを用いて年代ごとの二酸化炭素の増加や、海洋気温の増加、東日本大震災のときの津波の世界への時間毎の影響が視覚的に表現されていて感無量でした。(下は二酸化炭素増加量)

正直ブログの形態では紹介しづらい面も多いのでhttp://www.miraikan.jst.go.jp/を見てくださいというぶん投げなのですが、従来の科学館とは異なるコンセプトで、常に進化し続ける科学館であることは節々から感じました。
是非東京に行く機会があればいってみて損はないです。
ちなみに僕はじっくり見たり科学コミュニケーターの人と喋ったりしてたので開館(10:00)~閉館(17:00)までいたのに85%くらいしか見れませんでした・・・。是非また行ってみたいです。

行く場合にアドバイスしておきたいことですが、是非そこかしこにいる科学コミュニケーターやボランティアの人に話かけてください。あちらから話しかけてくることも多いのですが、話をしてみるとやはり訓練を受けているだけあって話がおもしろく、わかりやすいです。また、色々裏事情や業界の話なども聞けたり・・・。

様々な価値観を得て云々ってよく聞くよね


わりと随所で聞く言葉『様々な価値観に触れて見識を広めたい』、良い言葉ですね。
自分とは違う価値観を持った人とふれあい「こんな考え方もあるんだ」、そう感じ多様なものの見方ができる・・・。
成長するのに必要不可欠なことです。

ただ、「価値観に触れる」それだけでは何も起こらない。
色々な考えがあるんだなぁ、で終わってしまう。
その様々な価値観のもとに行動にうつさなければあまり意味がない。

いうなれば、食材ばかり集めて料理をしない感じ。

他の人の価値観にふれることで自分の中の価値観に変革を与える。そしてその変革の起きた価値観のもと動き、さらに変革をする。他人の価値観にのっとるのではない、自分の中に入れて、変革をする。
他人の価値観にのっとるだけならば、それは自分の価値観ではない。自分の価値観は自分で決める。

自己啓発書と同じでやる気や指標になることはあっても、「多様な価値観に触れる」、それそのものだけでは何の意味もないのではないだろう

2012年3月22日木曜日

当たり前のことを当たり前にするのは当たり前ではない?

肉焦がし…骨焼く… 鉄板の上でもっ………!(賭博黙示録カイジ12巻より)


人に信頼される方法。
そんなん人によるから知らんがな(・ω・`)って感じではあるが、少なくとも「最低限に信頼される」方法ならあると思う。
その「それなりに信頼される」を繰り返して、そこから先は立ち振る舞いとか能力とか色々で信頼を築いていくんじゃないかなーと思う。

じゃあ「それなりに信頼させる」にはどうしたらいいか?
当たり前なことではあるが、「当たり前のことを当たり前にする」こと。
しかし、それが案外難しい。



・「報告」「連絡」「相談」、通称「ホウレンソウ」
何かが終わればちゃんと上司なりに「報告」したり、少し待ち合わせに遅れそうなときに事前に「連絡」したり、少しつまずいてどうしたらいいかわからないときに指示を待ちにならずこっちから「相談」したり。
これらは、勝手な判断で上司の目論見からズレた動きをすることを防いだり、後の指示を与えやすくなる。というか、勝手に独断で動かれまくられるといらだちが積もり信頼も積もらない。



・「仕事は責任を持ってやる」
当たり前のことだけれど、何か仕事をするというのにテキトーにやったあげく失敗したならば、所属している組織なりそれを振ってくれた人に迷惑がかかる。ちゃんとやって失敗したのならしょうがないが、初めからテキトーにやっているというのは、所属組織などに失礼なことこのうえない。
僕は学生なので、身近な例でいうと学生団体とかはやっていることはありていにいえば、社会人がやっていることと大差ない。しかし、学生サークルのノリで仕事をしている責任感がない人が多いと感じる。
仕事・・・しかも社会人を巻き込んでいるのに自分の遊びを優先したスケジューリングをしたり、"なあなあ"で済ませようとしたり・・・。
そういえば昔、そのような一部のメンバーのせいで炎上していた学生団体イベントがあったなぁ。
何人か知り合いがいて彼らは優秀なんだけど、末端を統制できてないと団体の印象も悪くなってしまう最たる例だったと思う。(晒しのつもりはないのだけれども、紹介に問題があったら連絡ください。)



・"普通"って?
自分では"普通"と思っていても相手からしたら"普通"ではないことも多い。正確には「"普通"のラインが違う」。
例えば、13時頃に着いた至急の用でないメールに対して自分は「メールの返信はその日中に返せばいい」というのが"普通"と思っていて気づいてからすぐに変死を書かず23時に返した。しかし、返信相手は「気付き次第に返す」のが"普通"だと思っており、23時返信に対してあまり快く思わなかった。そして、「常識がないなぁ」と思われて信用が少し失われてしまう。


「自分の価値観が普通だと思いそれを押し付けてはだめ」これは「当たり前」と言われていることだが、この例はお互いに"自分の普通"を押し付け合っている。しかしこの例はわりとよくあるパターンだと思う。
どちらが悪いというわけではないが、「ホウレンソウ」やどちらかが上手く相手の"普通"を汲み取って合わせたりするのを繰り返して相手の"普通"を見極めたりするべきではないだろうか。



・まとめ
このように「当たり前のことを当たり前にするのは当たり前」だが、案外無意識にやれていない人が多いと思う。
しかし、だからこそそれができる人は最低限の信頼をされるのではないでしょうか。
僕は、今まで大したことはやってきてないけれど、色々とやってきた中でこのあたりのことができる・できない人でだいぶ印象が違っていた。
というか、「当たり前のことを当たり前にできる」人はすべからく優秀だったようにも思えた。



・余談
当たり前の落とし穴どころか、「え!?そんなことする人いるの!?」っていうレベルの、当たり前以前に常識がない人とかも結構いた。
例えば、「人を自分たちのための道具で、生きた人間として見ない人」も何故か案外いた。
実例をしめすと、少しだけ絡みがあった人から「講演に出てくれませんか!?」みたいな連絡が来て、出てもよかったんだけど諸事情あったのでわりかし時間をかけて丁寧に理由を書いて断りの返信を送ったのに、出ないとわかって切り捨てられたのかそれに対する返信すらない・・・。本当にありました。
前述のようにどこかに所属しているならば、それをした個人だけでなく団体そのものへの印象も悪くなるし、人ヅテでそのことが伝わって大きな不信の渦になったりもする。少なくとも僕はこの団体に対してどちらかといえばあまり良い印象はない。

普通に考えたら彼の対応は良い印象を受けないことは明らかなのに、自分のことを優先しすぎて人への配慮ができていないのか「当たり前のことすら当たり前にできていない」人が多かった。

「相手を生きた人間として扱う」のは当たり前。

2012年3月20日火曜日

デジタルコンテンツが手軽に売買できるameroadがおもしろい




ameroadっていう最近できたサービスがおもしろい。
自主制作した、音楽や画像、文章や写真などを気軽に有料DLできるサイト。
今まで個人で同人的活動をしていたのを有料DLできてたけど気軽さが段違い。アップローダーにアップする感覚でポチッっとするだけで、はいOK!
まぁgumroadの日本版って認識で。
ちなみに、あっちがガムなら日本はアメだろ!って名前付けらしい。

このサービスは基本的には身内向け感が強かったりもする。
わざわざ友達用にデータまとめるのもダルいなー、みたいなプチコンテンツを「~な情報まとめといたからよかったら100円でいいからちょうだい☆」みたいにまとめるモチベーションつくりになる。
100円なら友人だしまぁいいや、ってのと小銭貰えるし今後もモチベが上がってお互いWIN-WINみたいな。

実際にアップされているコンテンツも気軽な感じなのが多くて、例えば海外旅行のときに大量に撮ってきた写真だとかExcelのマクロとか、場合によっては「○○してあげる権利」とか・・・(エロい意味ではないよ)
ようするに小さなデジタルコンテンツを売れるサイトですね。

知り合いが『海外に出る前に知っておきたいこと100(全48P)』ってのを出品してるんだけど、こういうような個人っぽいやつもtwitterアドレスが書いている&誰が買ったか通知されるから出品者との「こここう書いてるけど細かく聞きたい!」ってのとかもやりやすくて面白い。

スキルがあったら絶対してたのに!ってので、こえ部ニコ生の声優声真似で売っている人が「希望の台詞言います権(100円)」とかやったら絶対流行ると思う。まぁ僕は声スキルないのでできませんが・・・。もしこれ見てやってみる人がいたらアイデア料ください(笑)

「わざわざお金払ってまで買ってくれる」というので、「お金」っていうのは小額でもすごく原動力になる。
そんな感じで気軽さもあいまってプチ・イノベーションをおこしそうなサービスだな、とちょっと注目中。

2012年3月17日土曜日

社会に埋没しない"武器"を持つには?学生レベルのすごいから脱却しなきゃ!


ある知人とウダウダ飲んでいたときにあることの雑談をした。
「あ~、○○さんってすごいっすよねー」
「ああ、あいつはやべぇw」
「俺もあの域にいけたらなぁ」
「さすがにそろそろ今の域から抜けたいっすよねー」

知人も僕も、自分の立ち位置をわきまえてて「まだ凡人の域から出てない」と感じている。
このときにその知人から興味深い話を聞いた。

「たまたま友人のすごいやつの紹介で、若手エリートが集まるクルージング?みたいなやつに乗せてもらったけどマジ埋没したわ。学生の枠組みではまぁちょいちょい色々やってたけど、そんなん社会人から見たらハッ(笑)って感じで何も話せることがなかった。」
この言葉はすごく自分の中に響いた。
学生レベルで多少すごいことをしようと、所詮学生の枠組みなのだ。
そんなもん、社会人からしたらタダのお遊びに等しくて強みでも何でもない。


学生ながらにビジネスマンと対等なことをフリーでしてたり、アフィリエイトで同期の月収を余裕で越していたり、、、そういう人(以下、スーパー学生)は社会人の中でも対等に話せるのだろう。そのノウハウとかの知識を相手に提供できるので、相手からしても聞く価値がある。
だが「○○という学生団体でリーダーしてました!」なんて、学生相手にはスゴイと思われるようなことを言っても社会人からしたら何のメリットもなくて「へー、そうなんだー・・・」と思われるだけだ。

じゃあ、そうならない強みを持つにはどうしたらよいのだろう。
前述のスーパー学生に少しでも近づくにはどうしたら良いのだろう。

スーパー学生らは自分でビジネスを立ち上げている人が多い。アフィリエイトなどのネット活用系はさておき、完全歩合制でコンサルやファイナンシャルプランをしている人などもいる。
このあたりは「しょせん学生だろw」と思われて信用がない。だが、その信用のなさを埋めるために資格の活用がキーになるのではないだろうか。
簿記2級やTOEIC800を取るより大事なことに書いているように、弁護士のように「それがないとできない資格」を除いて資格なんて所詮知識でしかない。
あくまで「最低限の知識はまぁありますよ」という証明手段でしかないのだ。
しかし、例えば「ある資格×ある資格」という組み合わせだとどうだろうか。
例えば、TOEIC900点持ってたので外人に観光案内をしていました、または全国観光案内検定持ってたので観光案内してました。それぞれじゃ弱い。
しかし、TOEIC900点と全国観光案内検定の2つの資格を活かして外人に観光案内をしてました!だと何かそれっぽいしちょっと信頼できる。
そのような上手い証明をすることで学生の信用の穴埋めができるのではないだろうか?

ただ、もちろんこれはあくまで「動く際の信頼をどうするか」って方法なだけで、動かなければ何の意味もない。
一番大切なことは「変に恐れずとにかく動いて何かをすること」
あくまで資格の組み合わせもツールでしかないのだ。

その「動くこと」で自分というブランドを確立して、学生だけでなく社会人の中でも相手に何か提供できるレベルになってはじめて「頭ひとつ抜けた」になるのではないだろうか。

今後日本はどんどん発展途上国に追い付かれていき、個性がない代替可能な"普通の人"はどんどんと賃金が安い外国人に仕事を奪われていく。
そのためにも"普通の人"から脱却し、頭ひとつ抜けなければ生きてけないのではないのだろうか。


余談!
個性・・・つまりみんなと違うことをやるに当たって自分の専攻分野と違うことをやってみるのがてっとり早いような気がする。
哲学科の人が哲学のことを知っているのは当たり前。だけど、哲学をビジネスに持ちこむ人は稀である。
ならば、哲学×ビジネスをするだけで結構簡単に個性になるんじゃないかなぁとも思える。それをしている"普通の人"とは違う視点から物事みれて革新的なアイデアを出せるしね。

というか、体感ではあるが個人的におもしろいと思う人に専門外のことをやっている人が非常に多い。
自分の専門と関係なさそうなことをしていて上手く融合できていて人とは違うから面白いのか、自分の専門と違うことをわざわざやっている人が面白いのか、卵が先か鶏が先か・・・って感じでどっちなのかはわからないけれども。

2012年3月15日木曜日

『自己責任』は悪い言葉なのか ~自己への「自己責任」のすすめ~



小泉元総理の時代からよく聞くようになってきた『自己責任』という言葉。
最近だと派遣村とかの話でよく耳にしたが「個人主義的だ!」とか「冷徹すぎる!」と批判が多い。

「自己責任」という言葉は強い。
災害とか、事故被害とかを除いて大抵のことは全く自分に非がないとはいえない。
例えば、詐欺にあった場合はもちろん詐欺をするような人が悪いのだけれども、「被害に会うような警戒心のなさも悪い」と言おうと思えば言える。

そのように情などを切り捨てたら確かに全ての物事の非は多少なり自分にある。そのため、突き詰めれば「自己責任」という言葉は正しい

しかし、それを他人に強要するのは少し違うのでは、とも思う。
前述のように強い言葉であるからこそ、言い返せない。言葉の暴力みたいなものなのだ。
正論ではあるかもしれないが、情や思慮などが一切抜けている
そんなものを他人にしていいわけがない。

ただ、個人的には自分が自分に「自己責任!」と言うのは構わないと思う。
だって自分だもん。「相手」は「自分」なんだから相手のことを考えないもクソもない。
で、なんでタイトルにあるように勧めたいかというと、自分に強要することでちゃんと責任を持って行動ができると共に、失敗したときに何でもかんでも他人に責任転嫁をしなくなる。
責任転嫁なんて何の成長にもならない。そんなのただの非生産的な一時しのぎのストレス解消。

また、責任を自分に帰結させるならば、そこでなんらかの落ち度に気づける。前述のように、ほとんどのことは全く自分に落ち度がないということはない。
先ほどのように詐欺を例に出すならば、泣き寝入りするだけではなく、自分の落ち度に気付けたならば「どうにかできたかもしれない」となる。「どうにもならない」という絶望がなく、気持ちの落とし所を見つけれる。
そして、それを起きないように今後にいかすにはどうしたらいいかと考え学習する。
つまり、成長の機会を自分に提供できる。

と、このように「他人に自己責任を強要はするな。でも自己には責任を課せよ」という矛盾した考え方を持っている。
そこにどう整合性をつけているのかというと、要するに「俺は自己責任として物事を処理するけど他の人はそのあたり勝手にしたらいんじゃね?」的なゆるーい考え方。
つまり「他人に価値観を強要しない。」
それに尽きる。ここに書いているのも含め、あくまで"ススメ"

ただ、政治家とかの場合どうしても全体を見なければいけないので、「最大多数の最大幸福」のために「自己の責任が多い人」に「自己責任」を強要しなければいけない。
そのあたりのさじ加減が難しいよなぁ、と思う。

自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね




世間一般で「自分の軸を持つことが大切」とよく言われます。
就職活動本とかでも「スキルはあとから付いてくるから、とりあえず自分の軸を持った学生が欲しい」など、よく聞くワードですね。
じゃあ何故「自分の軸を持つといい」と多くの人は言うのでしょうか?


・信念の下に行動できる

まず第一に誰か別の人の判断に任せず自分の判断で進むこと、そのための信念がハッキリする。
人によって正義は多種多様なので、他者の判断のみをあてにすることはその都度自分の中の正義がブレる。一本通しではない。

また、自分で選択しなければいけない状況で自分の軸がない人は何もできなくなる
他人の判断にのっかかるのは自分で方向などを定めないで思考放棄をすればいいので責任もないため楽。
逆に、自分で判断すればすべての責任は自分に返るしときには批判され楽ではない。
しかし、いつまでも自分の頭で考えないで使われる立場にいて受動的に生きててんやわんやするよりかは実のところ楽なのかも。


・自分の言葉でしゃべれる

何か意見を求められたときに、自分の軸がないと、どこかから借りてきた言葉を喋るだけになってしまう。
その場合前述のように自分の正義とややズレた言葉になるし、何よりも自分が考えた言葉ではないためどうしても浅い言葉になってしまう。
一方で、自分の軸があれば軸から照らし合わせて出てきた言葉を話せばいい。「自分の言葉」なので説得感があるし、何か聞かれても一本筋が通っているのですぐに返すことができる。

・群衆に埋没しない

日本の文化として「出る杭は打たれる」というのがある。少しでも目立つと叩かれて周囲と同じになってしまうのだ。
しかし、自分の中で芯・・・つまり「正しい」という考えがはっきりとあるならば出る杭はへこまない。
出る杭がへこんでしまうのは芯がないから何か言われたとき「本当に自分の考えは正しいのか?」と自信がなくなり、周りの"普通"に迎合してしまうからだ。

・相手に誠実に向き合える

ブレる正義で人の言葉・・・つまり人の信念を借りて人と関わるのは、「自分」が相手と向き合ってない。
相手が自分を出して向き合ってきているのに、他人の言葉という虚像と対峙させてしまうのは単純に不誠実ではないのだろうか。
さらにいえば、他者だけでなく自分にも正面から向き合っていないということにもなり、自分に対しても不誠実。
様々な自分の中の不安などからにも目を背けていることになるので解決などするわけがない。

Aという選択肢しかないと思いこみ、Aを選ぶのではなく、Aのほかの可能性B,Cなども考えたうえでAを選択する。
結果だけみればそれは同じことだが、想いが違う。
世間で言われている"定説"(=1つしかない選択枝)から半自動的にそれを選ぶのではなく、数ある中から"選ぶ"ことで、そこに"自己"が介入する。
それこそ自分の言葉ではないのだろうか。


・まとめ

さて、有名な哲学家であるエマヌエル・カントはいう。
「自由とは自然や社会の掟で左右されるのではなく、あくまでも自分の定めた法則にのみ従って行動することにほかならない。人間には自由で法則を定める子おのできる理性が定まっているからだ。」
「前者(他律)は他者の定めた掟や目的のために行動するのだから、そのとき私たちは他者の定めた目的の道具となり下がってしまう。これに対して後者(自立)は何かのための目的のための道具ではなくその行動事態が目的なのだ。」

つまり、自律的に行動するときは他人のルールに沿っているのではなく、自分のルールに沿っている。
当たり前だが正義というものは人によって立場が変わる。「正義の反対は悪ではなく、別の正義」という言葉もある。アメリカの正義と中東の正義が異なっているため戦争が起きていることなどわかりやすい例である。
自分の正義というものは当たり前であるが自分にとっては正義だ。つまり、自己のルールに沿う行動は道徳的である、と言える。
"自己"を行動の基点としているとも言い替えられる。
本当に道徳的に行動するには"自己"、つまり"自分の軸"が必要なのだ。

2012年3月13日火曜日

絶望の国の幸福な若者達レビュー





この前朝ナマで古市憲寿さん著「絶望の国の幸福な若者達」を取り上げて議論していたので、最近再読してみたのでレビュー。


※作者の主張が正しいとして展開します。

内容としては

・「仲間」がいる「小さな世界」で日常を送る若者たち。これこそが、現代にいきる若者たちが幸せな理由の本質である。

・「小さな世界」の中に生きているならば、いくら世の中で貧困が問題になろうと、世代間格差が深刻な問題であろうと、彼らの幸せには影響を及ぼさないことになる。

に集約されている。

自分を含む「小さな世界」のみが「自分の世界」であって、それ以外の世界はあまり関係がない。
さらにいえば、「別の世界の話」なのでリアルに感じない。
政治がどうなろうが、自分たちがどうこうできる話ではないのでリアルを感じないのだ。
さらに言えば、巻末で佐藤健さんが言っていたように「今が幸せだし消費税が上がろうが政治がどう動こうが関係ない、どう変わろうが自分は幸せに暮らせる」のだ。
これはもはやリバタリアニズム的考えで個人主義が蔓延しているように思えた。
自分の「小さな世界」が侵略されないのならばそこで個人個人楽しくやっていくさ。そう考えるのも無理がないと思う。

生まれたときから不況、政治家のスキャンダルの多発による政治不信、などなど「社会に対して僕らはどうしようもない」という無力感が蔓延している。それならば社会という関与できない、別の世界のことなんかより関与できる自分たちの世界を。
さらにいえば、自分たちの小さな世界で現代はいくらでも満足出来うる。

ほとんどの人は最低限の社会権は守られてるし、パソコンやゲームなどの娯楽品も持っている人も多い。
特に、昔と比べて娯楽が多様化され好きなものを安価でできるし、ましてやインターネットさえあれば無限大の情報にアクセスできる。
食事も高級寿司は無理でも安価で"そこそこ美味しい"ファストフードも食べられる。
つまり、多くを求めなくてもそこそこならば十分幸せを感じられる。
さらに、古市さんのいうように『現代日本には、恋人や友人に依存しない形で、僕たちの承認欲求を満たしてくれる資源が無限に用意されている』。
例えばSNSでいつでも誰とも繋がれるし、ニコニコ動画などを使えばプロのような扱いもも容易に受けられる。

今が満足でき、未来をリアルに感じない。そんな若者が、幸せに感じない理由などないのではないだろうか。

さて、ここで思ったのは、彼らはかりそめながらもマズローが言う人間の欲求、
・生理的欲求
・安全の欲求
・社会的欲求(所属と愛の欲求)
・承認の欲求
・自己実現の欲求
のうち最初の4欲求(欠乏欲求)は満たしている。


ということは最後のひとつ、存在欲求である「自己実現の欲求」が足りないのでそれを目指すのではないだろうか。
つまり、「自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求」が自らを動かす。

以前、『「意識の高い学生」ブームが今後社会に与える影響』という記事に書いたように、最近学生団体は乱立している。
学生団体とは「自己実現の場」。
なので、「自己実現の欲求」が満たされる場なので最近乱立してるのかな?とも思ったり。

しかし、記事に書いたように実際は「自己実現の場」というより「所属と愛の欲求」や「承認の欲求」に近い行動をする人が多い。
これはかりそめながらもマズローの4欲求を満たしたからなのではないだろうか。
かりそめの4欲求を満たして最後の関門であり、性質の異なる「自己実現の欲求」に辿り着いた(気になった)。
だけれども、結局満たしきっていなかったはじめの4欲求に戻ってしまった。
……そうとも考えられないだろうか?
だからちぐはぐな行動になる。

いかにこの「かりそめの欲求」を"かりそめ"じゃなくすかが今後の若者の鍵なのではないだろうか。
そのためには「小さな世界」という平和なエデンの園から脱出して「大きな世界」・・・それこそ文字通り世界を見たりするのが大切なんじゃないかなー、とか再読して思いました。

2012年3月11日日曜日

世代間でのラベルの張り合い・馬鹿にし合い。お互い正面から向き合ってない。



若者の○○離れとよく言われているがそれは本当なのだろうか。
例えば、若者の車離れ・若者の新聞離れ・若者のテレビ離れ・若者の読書離れ・若者の映画離れ・若者の飲酒離れ、若者のセックス離れ、などなど。
しまいには、若者は内向きなためスピードを出さないので若者の交通事故離れが起きてるとまで言われる始末。

本当にそれは悪いことなのだろうか、そもそも正当な評価なのか。

所得の変化、価値観の多様性により趣味の選択の幅の増加、インフラなどの強化などを考慮に入れず、交通事故離れのように大抵の記事は「若者は内向きになった」という結論になっている。
これらは「若者は車が好きで当たり前」のような「若者は○○をして当たり前」「○○が好きじゃない今の若者はおかしい」ということを前提に書かれると同時に、若者は「内向き」などの安易なラベリングがされると共に、産業が低迷している"戦犯"とされる。

それを受けて"若者"は「お前ら団塊の世代が頭おかしいんだろ」「バブルの異常な価値観を今に適用させんなカスw」と反論する。
そしてこれと類似した事例を積み重ねて行くことで「団塊世代」や「バブル世代」の人々への不信感を募らせていく

このようにして、現代では若者VS非若者の馬鹿にし合いが起きている。
確かに若者……さらにいえば最もラベリングされやすい「ゆとり世代」である僕も「ゆとりゆとりって馬鹿の一つ覚えみたいに不当なレッテル貼って全体に適用させんなよ」と思うことは多々ある。

しかし、よくよく考えると僕たち"若者"だけが不当なラベリングをされているわけではない
僕たち若者も"老害"をはじめとして「バブル世代は感覚がおかしい」「団塊は自分たちが主役気取りで頭硬い」とラベルを貼っている。
ものすごーく当たり前のことではあるのだが、案外みんな被害者ぶるだけぶって「自分たちも安易なラベルを貼っている」のに気がついていない。

つまりお「団塊死ね」というのも「ゆとりは馬鹿」というのも結局のところ同じではないだろうか。
僕たち若者からしたら「団塊の価値観で見てゆとりのやつらはおかしいと馬鹿にしてくる」というが僕たちも"若者の価値観"で見て「団塊は自分たちが主役気取りで頭硬くておかしい」などと言っている。

さて、安易なラベリングをすることで、どういうことが起きるか。
「世代論のワナ」という本にはまずこう書いてある。
『なんとなくその世代のことがわかった気になれる。』
安易なラベリングほど楽なものはない。世間で言われていることをそのまま鵜呑みにすればいい、それだけでなんとなくその世代のことがわかった気になる。
そして、やっかいなことに一度自分の中でそのラベリングをしてしまえば納得をしやすいというところもある。
坊主憎けりゃ袈裟も憎い、ではないが一度そう思いこめばすべてがそう見えてしまう。

たとえば「ゆとり世代は根性がない」とラベリングしてしまっていれば、たまたま部下のAくんが何かに諦めてしまうだけで「やっぱりゆとりは根性がないんだなぁ」と思いゆとりの法則として自分の中で確立化していく。
ちなみにこの場合、Aくんがたまたま投げ出した同程度のことでも他の世代の人がした場合その世代は「根性がない」と見なされづらい。「ゆとり世代の」Aくんが「投げ出した」から、根性がないとみなされるのだ。

ただし、みなさん御存じの通りラベルが絶対正しいとは限らない。
つまり、世代間でラベリングをし合い、お互い虚像を相手にわかった気になって、正面から向き合うことがない。

ラベリングなどせず世代など関係なくまずは「一人の人間」として見ることが当たり前だが大切なのではないか。
と、同時に、ラベリングという安直な方法を取らずにきちんと正面から向き合い、話し合うことで相手の視点の根拠もわかりお互い「よくわからないもの」ではなくなり、相互理解が生まれるのではないだろうか。
安易な締めくくりではあるが、本当にそう感じることが多い。

ちなみに、大人たちに自分たちの世代の価値観(草食系とか)が何故起きるかの説明を自分らなりに説明したら結構ウケます。「よくわからない」からこそ、不思議がり、おもしろいのだ。

2012年3月8日木曜日

大学生に強制的に勉強させるのってどーなのよ


このたび、大学分科会大学教育部会が大学生の勉強時間が少ない!ってことでその対策をした大学には財政面で優遇(補助金とかかな?)するよ♪っていうのを2013年度にも適応する予定
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120307-OYT1T00669.htm?from=tw

文科省のHPなど見ても一次情報がないので憶測になるが、この案はどうなのだろうか。
大学側の措置として「自主的に勉強させるのを促す」となると効果が弱いので、「強制的に勉強する時間を取らせる」ということになるだろう。
例えば、今まで通りだと「授業でレポートを多く作らせるようにする」程度だと考えられるが、

勉強時間を増やす方策を講じたりした大学を、財政面で優遇するべきとする

となっているのでもちろん文科省への報告義務があるのだろう。
そうなると、「授業でレポートを多く作らせるようにする」だと少し弱い。
また、

こうした学生の評価を覆してグローバル化時代に対応できる能力を育成するために、大学に対し、学生の知性を鍛える課題解決型の授業の導入など、質の高い教育に転換するよう求めている。

とのことから、課題解決力を養わせたり、TOEIC対策のe-ラーニングにするのではないかなー、と思う。
この場合教授陣の手間はかからないし、問題を解くので「勉強感」がある。そしてなによりも何時間勉強したかがわかる。

さて、そもそもこのように「学生に強制的に勉強時間を作らせる」というのは正しいのだろうか。
2つほど懸念点があって、
まず1つ目は「強制的にやらされることで本当にタメになるのか」ということ。
「グローバル人材を育てる」というのが理念っぽいけど、人に強制的にやらされることを画一的にやってて本当にグローバル人材になれるの?
そもそもこれって散々議論されてきた「詰め込み教育」への再起じゃないの?

グローバル人材という言葉が抽象的すぎて文科省での像がわからんのでとりあえず経団連の学生に求めるグローバル人材の定義っぽいものが書いた資料から借用

・社会人としての基礎的な能力に加え、日々、変化するグローバル・ビジネスの現場で、様々な障害を乗り越え、臨機応変に対応する必要性から「既成概念に捉われず、チャレンジ精神を持ち続ける」姿勢、
さらに、多様な文化・社会的背景を持つ従業員や同僚、顧客、取引先等と意思の疎通が図れる「外国語によるコミュニケーション能力」や、「海外との文化、価値観の差に興味・関心を持ち柔軟に対応する」
こと

・、異なる文化や価値観への関心を持つとともに、日本の文化や歴史、哲学などの学習を通じて、物事を考察する際の基礎となる思考力を身につけている。
大学におけるリベラル・アーツ教育の拡充を通じて、文科系、理系等の専門科目に捉われず、幅広い視野や、基礎的思考力を持つことが重要


えー、長くてかたっくるしいんで大雑把に言うと「ビジネス能力があって、根性があって、柔軟な思考ができて、言語力とコミュ力があって、他の価値観を受け入れ理解する度量があって、日本のこともよく知っていて、文理関係なく知識がある」
・・・どこの超人だよwwwって思わず突っ込みたくなりますね。
まぁ能力面はさておき、姿勢だけみると
「自分の意見を持っていて(自分の頭で考えて)、行動し、問題解決をする」ような人材のことを示すのではないだろうか。
と、なればそれこそ人に強制的にやらされるような勉強しかできないのはどうなの?と思う。

で、2つ目。「自分から目標を定めて努力をする人の勉強時間を阻害する」
学校側から強制的にやらされるということは、その分自分の勉強ができなくなる。と、いうことは「自分から勉強をする人」は阻害される。
・・・あれ、「自分から勉強する人」って文科省が求める「グローバル人材」に近い人なんじゃないの?自分たちからそれを潰しにかかってるんじゃないの?


確かに、強制的に勉強させることで学生全体の学力は向上すると思う。
だけれども、一部の意欲的な学生はその被害を被る。
つまり、今までの日本の出る杭は叩く平等教育と同じく「上の上はいないけれど、みんな中の上」といったようになる。だが本当にそれでよいのだろうか。これから沈んでいくだけの日本に今までにない発想の「天才」を生むには「中の上」の人間だけでよいのだろうか。

上手く「自分から勉強する人」の邪魔をしないで、「勉強しない人」を勉強させられるようなきめ細やかな対応をしてもらいたいと切に願う。


余談!
はじめから「強制的に勉強するようなところ」(例えば厳密には違うが国際教養大学とか)に行きたい人もいるしそれも別にいいと思う。
しかし、そのようなところでない場所、つまり「自由に遊んだり学問を学んだりする場所」を選んだ人に「強制的に」勉強させるのはどーなんよ、って話。というか、「強制的に勉強するところ」って書いたけど自らその場に行くってことは"強制的に"勉強じゃないしね。

2012年3月3日土曜日

山月記とスヌーピーから学ぶ、"自分"を取り扱う方法。

『山月記』という小説がある。
おそらくみんな高校の頃学校の授業で習ったと思うが、簡単なあらすじを書くと、

李徴はかつての郷里の秀才だった。しかし、片意地で自負心が強く、役人の身分に満足しきれなかった。彼は官職を辞し詩人として名を成そうとするも、うまく行かず、ついに挫折。小役人となって屈辱的な生活を強いられたが、その後、地方へ出張した際に発狂し、そのまま山へ消え、行方知れずとなった。

翌年、彼の数少ない旧友で高位の役人であった袁傪は虎の姿となった李徴と出会う。
なぜ虎になったのか。自分は他人との交流を避けた。皆はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。
本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して才を磨くのも嫌がった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。
(wikipediaからはしょりつつ引用)

私はこの小説を初めて読んだときに衝撃を受けた、と同時に「これは自分の将来ではないか」と感じた。
自意識ばかり高く、自分は能力が高いと思いこむ。
しかし実際にその能力を発揮させる場にいかない。何故か。自分に実は能力がないという現実がもしかしたら露呈するかもしれないからだ。

もしこのまま現実を知らず、このような臆病な自尊心と尊大な羞恥心を飼い太らせてしまうと虎になってしまうのではないだろうか。
―――もちろん"虎になる"というのは比喩表現であるので現実に当てはめるならば、自尊心が自分を乗っ取り暴走して人々を傷つけるだけの存在になってしまう、ということになる。

自分は優れていると誰でも思った経験はある。
だが実際にその"優れている"を試そうとした人は少ない。
と、いうことは皆少なからず虎になってしまう可能性はあるのではないだろうか。

ではそれを防ぐにはどうすればいいのだろうか。

この話で虎になった李徴は後悔しながらこう語る。

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。
それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。

『才能の不足が露呈するのを恐れず人々の中で自分の能力を試し、磨く』
これだけでいいのだ。
これは「まだまだ上には人がいる」、それを自覚しつつ、なお進めばいいのだ。
昔の人も、「高くなった鼻をおる」「井の中の蛙、大海を知る」といった表現で似たようなことを言っている。

さて李徴の場合実際に非凡な才能を持っていたようだが、多くの人は平凡な才能しかない。しかしそのような人でもこの教訓は利用できる。
世の中に出て、自分が凡人だと自覚する。そこで「自分は凡人だから・・・」とやけにならずそれでもなお上に進みたいと思うのならば、凡人ということを自覚しつつ積極的に人と交わる。
その過程で何らかの『強み』を発見する。そして凡人は凡人なりに非凡な人に追いつく努力をするべきではないだろうか。

スヌーピーの言葉でこんなものがある。
ルーシー「時々、あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…」
スヌーピー「配られたトランプで勝負するっきゃないのさ」「それがどういう意味であれ」


漫画や映画のようにいきなり能力が現れて違う自分になることなんて現実にはない。
自分は自分なのである。
結局のところ天才を羨む前に、与えられた自分の能力でこの世を勝負していくしかないのだ。
ならば、自尊心を臆病にさせず、羞恥心を尊大にさせず、己という現実を自覚しそれを磨いていくしかないのではないだろうか。

2012年3月1日木曜日

「意識の高い学生」ブームが今後社会に与える影響



昨今、社会的なことに対して興味が強い学生、通称『意識の高い学生』のブームが起きている。

彼らは学生なのでもちろん社会に出ていない。
そのため、世間知らずではあるがそれゆえ潔癖で正義感が強く「今の社会を良くしよう!」と考えて行動している。

彼らが大人になってもその潔癖な気持ちを忘れず心に留めて社会の中を動き社会の中心になれば、今の日本の癌である既得権益層、つまり一部権力者が社会に悪影響を及ぼすことを省みず自らの利益をむさぼるような構造を打破できるのではないだろう。

だが、そもそも彼らは今の潔癖な気持ちを忘れず年を取れるのだろうか。

私が思うに、意識の高い学生ブームというのは生まれたときからの不景気をはじめとした厭世、ましてや就職不安からくる『何者かにならなくてはいけない』という圧力からくる不安が根底にあると思う。
そのような『何者にもなれていない平凡な自分』は『社会的に良い』とされることを行うことで『何者かになれた』と錯覚し承認欲求が満たされる。
つまりこのブームは『何物にもなれていない』という、ある意味コンプレックスといえるものが根底となっている人が多い。
(もちろん、社会に対する正義感や自分が面白いと感じたことがたまたまそのような活動だった人もいるが)

もしそのコンプレックスが正しいならば、承認欲さえ満たされたら代替は可能だ。
今はたまたま目につきやすい学生団体がそのための拠り所となっているだけだ。

ならば、承認欲が最も満たされるうちのひとつである権力というものを手に入れたとき、それが社会害悪である既得権益のようなものでも依存するのではないだろうか。

このような仮定をたてた理由として、『意識の高い学生』と呼ばれる人たちと多く会ってきて、『学生団体』という権威に自らのアイデンティティを預けている人が多く感じたからだ。
学生団体に入ることで満足して、自らは考えず動かず、使い走りになっているだけなのに「自分はすごいことをしている!」そのような人を多くみてきた。
「ファッション感覚で学生団体活動をしている」とも言い換えれる。
「学生団体に所属すること」は何かを達成するための手段ではなく、承認欲が満たされる目的なのだ。

そのような人たちは「スゴイと言われている~と知り合い!」「社長と知り合い!」といったことをとても価値あるように感じている。また、セミナー主催者などの(学生から見たら)すごい人の言うことに絶対的信頼を置く。

『すごい人』を教祖様とする宗教に近いかもしれない。神様でもいいのかな、多数の「すごい人」を崇める多神教。
そのため、端から見ていて教祖様を絶対視し、思考停止をしておりすごく危なっかしい。

そう考えると今の意識の高い学生ブームは昔流行った学生運動のように、かつての気概は大人になって霧散し、結局のところ何も影響を及ぼさないのではないだろうか。


しかし、もちろん中にはファッション感覚ではない人もいる。
彼らは、自ら望む『社会をよくする』ということへの『手段』として学生団体に入るなり作るなりして、常に自分の頭で考え、行動している。
彼らのような権威に従属せず、自らの正義の道を突き進むような学生が増えれば今の日本のような一部の既得権益層が得をし、それ以外が不利益を被るような社会構造は変わるのかもしれない。

2012年2月29日水曜日

引越してきました



前のブログでは思ったことをばーっと書き連ねるだけでした。
しかし、どうせアウトプットするならば、もうちょっと練って書いてアウトプットの質を上げていこうかなと考えたので引越ししてきました。
以前までのブログ記事はこちらから飛べますのでもし読み漁りたい方がおられましたらどうぞ。