2012年3月27日火曜日

クズ型自分の取扱説明書



僕は自分をどうしようもないクズだと思っている。
いくらやる前は気概があってもいざやるとなったらやる気が起きない。実際やってみえも3日坊主で終わってしまう
。しかし気概だけはある
そのため、「なんで俺はこんなにもクズなんだろう・・・と思うことがよくあった。

僕は大学受験で浪人をして代々木ゼミナールに行っていたのだが、代ゼミでも1、2を争う英語人気講師の富田一彦先生の授業を受けていたときに彼はこう言った
「どうしても自分の癖として間違うものは間違えてしまう。ならば、○○の類似系問題は自分は間違ってしまう、ということを受け入れて、いかに○○の類似系問題だと気がつける(チェックできる)仕組みを作って対処するのが大切だ。」

これはあくまで、受験問題を解くためのテクニックの話であるが、物事の何事にも当てはまると思う。
自分なりに拡大解釈したものではあるが、
「自分の癖として、○○の状況になったとき△△をしてしまう。ならば、下手に○○の状況のときに△△をしてしまわないように無駄な努力を繰り返すのならば、あらかじめ○○の状況になったときに△△につながらない一連の道を定めたら良い。」

仕組みとして僕は"外部からの強制力"を自分で作り利用する。
例えば、自分がブログを書くのがいつも3日坊主になるならばあらかじめ「毎日更新します!」とtwitterなりで外部に知らせる。そうしたら、見栄っ張りな僕は「書かなかったら「コイツあきやがった(笑)」と思われそうだなぁ」と思い、書かざるを得ない。

「毎日勉強をしたい!でも3日坊主になってしまう・・・」ってときは友人を誘って毎日勉強会を開くようにする。
そうしたら強制的に勉強をする場に行かなければならない。

そのようにして、クズから真面目になろうと無駄なもがきをせずに、上手く"クズな自分"を受け入れて、クズなりに対策を講じることこそがクズな自分の上手い取り扱いなのではないだろうか。

2012年3月25日日曜日

日本科学未来館に行って来た


東京のお台場あたりにある日本科学未来館に行って来た。
宇宙飛行士の毛利衛さんが館長をしており、通常の科学館は初年度から3年間ほどの入場者数は右肩上がりだがそれ以降は低下する、という中01年からの開館から常に右肩上がりという科学館。

中でも興味を惹いたのは、科学の交流をコンセプトとし、展示物をわかりやすく解説する科学コミュニケーター(美術館などで展示物を紹介してくれる人)や多くのボランティアらによる展示解説。
科学コミュニケーターとは、「科学は一般人にわかりづらい」というイメージが先行している中、一般人と科学者の橋渡しとし、科学をわかりやすく・興味深く紹介する役割なのですが、それを養成するカリキュラムがこの日本科学未来館では行われています。
ちなみに、ここがその人たちのブログです。http://blog.miraikan.jst.go.jp/

僕は、東日本大震災のときのマスコミのイメージだけの科学報道によって偏った知識による科学への反発をすごく感じ「一般の人にもちゃんと科学を理解してもらい判断するリテラシーが必要なのではないか?」と思い、そのときに色々調べていた関係で科学コミュニケーターという職を見つけました。
そのため、僕はこの職業にすごく興味があて、なりたかったこともあり、この科学館に一度でいいから行ってみたいと考え、今回東京に行く機会があったので行ってきました!

中は普通の科学館と違い子ども対象/大人対象のものに明確にはわかれておらず、文字だけではなく、ビデオや参加型、ゲームなどとなっており子ども大人どちらも楽しめるようになっていました。
また、常に15分程度の小規模イベントがあり、展示物を見る→イベントに参加する→展示物を見る というループを繰り返すこともできます。

展示物の中でも特に目を惹くのはGeo-Cosmos(ジオ・コスモス)と呼ばれる有機ELパネルを球状にしきつめて作った地球型巨大ディスプレイです。

これを用いて年代ごとの二酸化炭素の増加や、海洋気温の増加、東日本大震災のときの津波の世界への時間毎の影響が視覚的に表現されていて感無量でした。(下は二酸化炭素増加量)

正直ブログの形態では紹介しづらい面も多いのでhttp://www.miraikan.jst.go.jp/を見てくださいというぶん投げなのですが、従来の科学館とは異なるコンセプトで、常に進化し続ける科学館であることは節々から感じました。
是非東京に行く機会があればいってみて損はないです。
ちなみに僕はじっくり見たり科学コミュニケーターの人と喋ったりしてたので開館(10:00)~閉館(17:00)までいたのに85%くらいしか見れませんでした・・・。是非また行ってみたいです。

行く場合にアドバイスしておきたいことですが、是非そこかしこにいる科学コミュニケーターやボランティアの人に話かけてください。あちらから話しかけてくることも多いのですが、話をしてみるとやはり訓練を受けているだけあって話がおもしろく、わかりやすいです。また、色々裏事情や業界の話なども聞けたり・・・。

様々な価値観を得て云々ってよく聞くよね


わりと随所で聞く言葉『様々な価値観に触れて見識を広めたい』、良い言葉ですね。
自分とは違う価値観を持った人とふれあい「こんな考え方もあるんだ」、そう感じ多様なものの見方ができる・・・。
成長するのに必要不可欠なことです。

ただ、「価値観に触れる」それだけでは何も起こらない。
色々な考えがあるんだなぁ、で終わってしまう。
その様々な価値観のもとに行動にうつさなければあまり意味がない。

いうなれば、食材ばかり集めて料理をしない感じ。

他の人の価値観にふれることで自分の中の価値観に変革を与える。そしてその変革の起きた価値観のもと動き、さらに変革をする。他人の価値観にのっとるのではない、自分の中に入れて、変革をする。
他人の価値観にのっとるだけならば、それは自分の価値観ではない。自分の価値観は自分で決める。

自己啓発書と同じでやる気や指標になることはあっても、「多様な価値観に触れる」、それそのものだけでは何の意味もないのではないだろう

2012年3月22日木曜日

当たり前のことを当たり前にするのは当たり前ではない?

肉焦がし…骨焼く… 鉄板の上でもっ………!(賭博黙示録カイジ12巻より)


人に信頼される方法。
そんなん人によるから知らんがな(・ω・`)って感じではあるが、少なくとも「最低限に信頼される」方法ならあると思う。
その「それなりに信頼される」を繰り返して、そこから先は立ち振る舞いとか能力とか色々で信頼を築いていくんじゃないかなーと思う。

じゃあ「それなりに信頼させる」にはどうしたらいいか?
当たり前なことではあるが、「当たり前のことを当たり前にする」こと。
しかし、それが案外難しい。



・「報告」「連絡」「相談」、通称「ホウレンソウ」
何かが終わればちゃんと上司なりに「報告」したり、少し待ち合わせに遅れそうなときに事前に「連絡」したり、少しつまずいてどうしたらいいかわからないときに指示を待ちにならずこっちから「相談」したり。
これらは、勝手な判断で上司の目論見からズレた動きをすることを防いだり、後の指示を与えやすくなる。というか、勝手に独断で動かれまくられるといらだちが積もり信頼も積もらない。



・「仕事は責任を持ってやる」
当たり前のことだけれど、何か仕事をするというのにテキトーにやったあげく失敗したならば、所属している組織なりそれを振ってくれた人に迷惑がかかる。ちゃんとやって失敗したのならしょうがないが、初めからテキトーにやっているというのは、所属組織などに失礼なことこのうえない。
僕は学生なので、身近な例でいうと学生団体とかはやっていることはありていにいえば、社会人がやっていることと大差ない。しかし、学生サークルのノリで仕事をしている責任感がない人が多いと感じる。
仕事・・・しかも社会人を巻き込んでいるのに自分の遊びを優先したスケジューリングをしたり、"なあなあ"で済ませようとしたり・・・。
そういえば昔、そのような一部のメンバーのせいで炎上していた学生団体イベントがあったなぁ。
何人か知り合いがいて彼らは優秀なんだけど、末端を統制できてないと団体の印象も悪くなってしまう最たる例だったと思う。(晒しのつもりはないのだけれども、紹介に問題があったら連絡ください。)



・"普通"って?
自分では"普通"と思っていても相手からしたら"普通"ではないことも多い。正確には「"普通"のラインが違う」。
例えば、13時頃に着いた至急の用でないメールに対して自分は「メールの返信はその日中に返せばいい」というのが"普通"と思っていて気づいてからすぐに変死を書かず23時に返した。しかし、返信相手は「気付き次第に返す」のが"普通"だと思っており、23時返信に対してあまり快く思わなかった。そして、「常識がないなぁ」と思われて信用が少し失われてしまう。


「自分の価値観が普通だと思いそれを押し付けてはだめ」これは「当たり前」と言われていることだが、この例はお互いに"自分の普通"を押し付け合っている。しかしこの例はわりとよくあるパターンだと思う。
どちらが悪いというわけではないが、「ホウレンソウ」やどちらかが上手く相手の"普通"を汲み取って合わせたりするのを繰り返して相手の"普通"を見極めたりするべきではないだろうか。



・まとめ
このように「当たり前のことを当たり前にするのは当たり前」だが、案外無意識にやれていない人が多いと思う。
しかし、だからこそそれができる人は最低限の信頼をされるのではないでしょうか。
僕は、今まで大したことはやってきてないけれど、色々とやってきた中でこのあたりのことができる・できない人でだいぶ印象が違っていた。
というか、「当たり前のことを当たり前にできる」人はすべからく優秀だったようにも思えた。



・余談
当たり前の落とし穴どころか、「え!?そんなことする人いるの!?」っていうレベルの、当たり前以前に常識がない人とかも結構いた。
例えば、「人を自分たちのための道具で、生きた人間として見ない人」も何故か案外いた。
実例をしめすと、少しだけ絡みがあった人から「講演に出てくれませんか!?」みたいな連絡が来て、出てもよかったんだけど諸事情あったのでわりかし時間をかけて丁寧に理由を書いて断りの返信を送ったのに、出ないとわかって切り捨てられたのかそれに対する返信すらない・・・。本当にありました。
前述のようにどこかに所属しているならば、それをした個人だけでなく団体そのものへの印象も悪くなるし、人ヅテでそのことが伝わって大きな不信の渦になったりもする。少なくとも僕はこの団体に対してどちらかといえばあまり良い印象はない。

普通に考えたら彼の対応は良い印象を受けないことは明らかなのに、自分のことを優先しすぎて人への配慮ができていないのか「当たり前のことすら当たり前にできていない」人が多かった。

「相手を生きた人間として扱う」のは当たり前。

2012年3月20日火曜日

デジタルコンテンツが手軽に売買できるameroadがおもしろい




ameroadっていう最近できたサービスがおもしろい。
自主制作した、音楽や画像、文章や写真などを気軽に有料DLできるサイト。
今まで個人で同人的活動をしていたのを有料DLできてたけど気軽さが段違い。アップローダーにアップする感覚でポチッっとするだけで、はいOK!
まぁgumroadの日本版って認識で。
ちなみに、あっちがガムなら日本はアメだろ!って名前付けらしい。

このサービスは基本的には身内向け感が強かったりもする。
わざわざ友達用にデータまとめるのもダルいなー、みたいなプチコンテンツを「~な情報まとめといたからよかったら100円でいいからちょうだい☆」みたいにまとめるモチベーションつくりになる。
100円なら友人だしまぁいいや、ってのと小銭貰えるし今後もモチベが上がってお互いWIN-WINみたいな。

実際にアップされているコンテンツも気軽な感じなのが多くて、例えば海外旅行のときに大量に撮ってきた写真だとかExcelのマクロとか、場合によっては「○○してあげる権利」とか・・・(エロい意味ではないよ)
ようするに小さなデジタルコンテンツを売れるサイトですね。

知り合いが『海外に出る前に知っておきたいこと100(全48P)』ってのを出品してるんだけど、こういうような個人っぽいやつもtwitterアドレスが書いている&誰が買ったか通知されるから出品者との「こここう書いてるけど細かく聞きたい!」ってのとかもやりやすくて面白い。

スキルがあったら絶対してたのに!ってので、こえ部ニコ生の声優声真似で売っている人が「希望の台詞言います権(100円)」とかやったら絶対流行ると思う。まぁ僕は声スキルないのでできませんが・・・。もしこれ見てやってみる人がいたらアイデア料ください(笑)

「わざわざお金払ってまで買ってくれる」というので、「お金」っていうのは小額でもすごく原動力になる。
そんな感じで気軽さもあいまってプチ・イノベーションをおこしそうなサービスだな、とちょっと注目中。

2012年3月17日土曜日

社会に埋没しない"武器"を持つには?学生レベルのすごいから脱却しなきゃ!


ある知人とウダウダ飲んでいたときにあることの雑談をした。
「あ~、○○さんってすごいっすよねー」
「ああ、あいつはやべぇw」
「俺もあの域にいけたらなぁ」
「さすがにそろそろ今の域から抜けたいっすよねー」

知人も僕も、自分の立ち位置をわきまえてて「まだ凡人の域から出てない」と感じている。
このときにその知人から興味深い話を聞いた。

「たまたま友人のすごいやつの紹介で、若手エリートが集まるクルージング?みたいなやつに乗せてもらったけどマジ埋没したわ。学生の枠組みではまぁちょいちょい色々やってたけど、そんなん社会人から見たらハッ(笑)って感じで何も話せることがなかった。」
この言葉はすごく自分の中に響いた。
学生レベルで多少すごいことをしようと、所詮学生の枠組みなのだ。
そんなもん、社会人からしたらタダのお遊びに等しくて強みでも何でもない。


学生ながらにビジネスマンと対等なことをフリーでしてたり、アフィリエイトで同期の月収を余裕で越していたり、、、そういう人(以下、スーパー学生)は社会人の中でも対等に話せるのだろう。そのノウハウとかの知識を相手に提供できるので、相手からしても聞く価値がある。
だが「○○という学生団体でリーダーしてました!」なんて、学生相手にはスゴイと思われるようなことを言っても社会人からしたら何のメリットもなくて「へー、そうなんだー・・・」と思われるだけだ。

じゃあ、そうならない強みを持つにはどうしたらよいのだろう。
前述のスーパー学生に少しでも近づくにはどうしたら良いのだろう。

スーパー学生らは自分でビジネスを立ち上げている人が多い。アフィリエイトなどのネット活用系はさておき、完全歩合制でコンサルやファイナンシャルプランをしている人などもいる。
このあたりは「しょせん学生だろw」と思われて信用がない。だが、その信用のなさを埋めるために資格の活用がキーになるのではないだろうか。
簿記2級やTOEIC800を取るより大事なことに書いているように、弁護士のように「それがないとできない資格」を除いて資格なんて所詮知識でしかない。
あくまで「最低限の知識はまぁありますよ」という証明手段でしかないのだ。
しかし、例えば「ある資格×ある資格」という組み合わせだとどうだろうか。
例えば、TOEIC900点持ってたので外人に観光案内をしていました、または全国観光案内検定持ってたので観光案内してました。それぞれじゃ弱い。
しかし、TOEIC900点と全国観光案内検定の2つの資格を活かして外人に観光案内をしてました!だと何かそれっぽいしちょっと信頼できる。
そのような上手い証明をすることで学生の信用の穴埋めができるのではないだろうか?

ただ、もちろんこれはあくまで「動く際の信頼をどうするか」って方法なだけで、動かなければ何の意味もない。
一番大切なことは「変に恐れずとにかく動いて何かをすること」
あくまで資格の組み合わせもツールでしかないのだ。

その「動くこと」で自分というブランドを確立して、学生だけでなく社会人の中でも相手に何か提供できるレベルになってはじめて「頭ひとつ抜けた」になるのではないだろうか。

今後日本はどんどん発展途上国に追い付かれていき、個性がない代替可能な"普通の人"はどんどんと賃金が安い外国人に仕事を奪われていく。
そのためにも"普通の人"から脱却し、頭ひとつ抜けなければ生きてけないのではないのだろうか。


余談!
個性・・・つまりみんなと違うことをやるに当たって自分の専攻分野と違うことをやってみるのがてっとり早いような気がする。
哲学科の人が哲学のことを知っているのは当たり前。だけど、哲学をビジネスに持ちこむ人は稀である。
ならば、哲学×ビジネスをするだけで結構簡単に個性になるんじゃないかなぁとも思える。それをしている"普通の人"とは違う視点から物事みれて革新的なアイデアを出せるしね。

というか、体感ではあるが個人的におもしろいと思う人に専門外のことをやっている人が非常に多い。
自分の専門と関係なさそうなことをしていて上手く融合できていて人とは違うから面白いのか、自分の専門と違うことをわざわざやっている人が面白いのか、卵が先か鶏が先か・・・って感じでどっちなのかはわからないけれども。

2012年3月15日木曜日

『自己責任』は悪い言葉なのか ~自己への「自己責任」のすすめ~



小泉元総理の時代からよく聞くようになってきた『自己責任』という言葉。
最近だと派遣村とかの話でよく耳にしたが「個人主義的だ!」とか「冷徹すぎる!」と批判が多い。

「自己責任」という言葉は強い。
災害とか、事故被害とかを除いて大抵のことは全く自分に非がないとはいえない。
例えば、詐欺にあった場合はもちろん詐欺をするような人が悪いのだけれども、「被害に会うような警戒心のなさも悪い」と言おうと思えば言える。

そのように情などを切り捨てたら確かに全ての物事の非は多少なり自分にある。そのため、突き詰めれば「自己責任」という言葉は正しい

しかし、それを他人に強要するのは少し違うのでは、とも思う。
前述のように強い言葉であるからこそ、言い返せない。言葉の暴力みたいなものなのだ。
正論ではあるかもしれないが、情や思慮などが一切抜けている
そんなものを他人にしていいわけがない。

ただ、個人的には自分が自分に「自己責任!」と言うのは構わないと思う。
だって自分だもん。「相手」は「自分」なんだから相手のことを考えないもクソもない。
で、なんでタイトルにあるように勧めたいかというと、自分に強要することでちゃんと責任を持って行動ができると共に、失敗したときに何でもかんでも他人に責任転嫁をしなくなる。
責任転嫁なんて何の成長にもならない。そんなのただの非生産的な一時しのぎのストレス解消。

また、責任を自分に帰結させるならば、そこでなんらかの落ち度に気づける。前述のように、ほとんどのことは全く自分に落ち度がないということはない。
先ほどのように詐欺を例に出すならば、泣き寝入りするだけではなく、自分の落ち度に気付けたならば「どうにかできたかもしれない」となる。「どうにもならない」という絶望がなく、気持ちの落とし所を見つけれる。
そして、それを起きないように今後にいかすにはどうしたらいいかと考え学習する。
つまり、成長の機会を自分に提供できる。

と、このように「他人に自己責任を強要はするな。でも自己には責任を課せよ」という矛盾した考え方を持っている。
そこにどう整合性をつけているのかというと、要するに「俺は自己責任として物事を処理するけど他の人はそのあたり勝手にしたらいんじゃね?」的なゆるーい考え方。
つまり「他人に価値観を強要しない。」
それに尽きる。ここに書いているのも含め、あくまで"ススメ"

ただ、政治家とかの場合どうしても全体を見なければいけないので、「最大多数の最大幸福」のために「自己の責任が多い人」に「自己責任」を強要しなければいけない。
そのあたりのさじ加減が難しいよなぁ、と思う。

自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね




世間一般で「自分の軸を持つことが大切」とよく言われます。
就職活動本とかでも「スキルはあとから付いてくるから、とりあえず自分の軸を持った学生が欲しい」など、よく聞くワードですね。
じゃあ何故「自分の軸を持つといい」と多くの人は言うのでしょうか?


・信念の下に行動できる

まず第一に誰か別の人の判断に任せず自分の判断で進むこと、そのための信念がハッキリする。
人によって正義は多種多様なので、他者の判断のみをあてにすることはその都度自分の中の正義がブレる。一本通しではない。

また、自分で選択しなければいけない状況で自分の軸がない人は何もできなくなる
他人の判断にのっかかるのは自分で方向などを定めないで思考放棄をすればいいので責任もないため楽。
逆に、自分で判断すればすべての責任は自分に返るしときには批判され楽ではない。
しかし、いつまでも自分の頭で考えないで使われる立場にいて受動的に生きててんやわんやするよりかは実のところ楽なのかも。


・自分の言葉でしゃべれる

何か意見を求められたときに、自分の軸がないと、どこかから借りてきた言葉を喋るだけになってしまう。
その場合前述のように自分の正義とややズレた言葉になるし、何よりも自分が考えた言葉ではないためどうしても浅い言葉になってしまう。
一方で、自分の軸があれば軸から照らし合わせて出てきた言葉を話せばいい。「自分の言葉」なので説得感があるし、何か聞かれても一本筋が通っているのですぐに返すことができる。

・群衆に埋没しない

日本の文化として「出る杭は打たれる」というのがある。少しでも目立つと叩かれて周囲と同じになってしまうのだ。
しかし、自分の中で芯・・・つまり「正しい」という考えがはっきりとあるならば出る杭はへこまない。
出る杭がへこんでしまうのは芯がないから何か言われたとき「本当に自分の考えは正しいのか?」と自信がなくなり、周りの"普通"に迎合してしまうからだ。

・相手に誠実に向き合える

ブレる正義で人の言葉・・・つまり人の信念を借りて人と関わるのは、「自分」が相手と向き合ってない。
相手が自分を出して向き合ってきているのに、他人の言葉という虚像と対峙させてしまうのは単純に不誠実ではないのだろうか。
さらにいえば、他者だけでなく自分にも正面から向き合っていないということにもなり、自分に対しても不誠実。
様々な自分の中の不安などからにも目を背けていることになるので解決などするわけがない。

Aという選択肢しかないと思いこみ、Aを選ぶのではなく、Aのほかの可能性B,Cなども考えたうえでAを選択する。
結果だけみればそれは同じことだが、想いが違う。
世間で言われている"定説"(=1つしかない選択枝)から半自動的にそれを選ぶのではなく、数ある中から"選ぶ"ことで、そこに"自己"が介入する。
それこそ自分の言葉ではないのだろうか。


・まとめ

さて、有名な哲学家であるエマヌエル・カントはいう。
「自由とは自然や社会の掟で左右されるのではなく、あくまでも自分の定めた法則にのみ従って行動することにほかならない。人間には自由で法則を定める子おのできる理性が定まっているからだ。」
「前者(他律)は他者の定めた掟や目的のために行動するのだから、そのとき私たちは他者の定めた目的の道具となり下がってしまう。これに対して後者(自立)は何かのための目的のための道具ではなくその行動事態が目的なのだ。」

つまり、自律的に行動するときは他人のルールに沿っているのではなく、自分のルールに沿っている。
当たり前だが正義というものは人によって立場が変わる。「正義の反対は悪ではなく、別の正義」という言葉もある。アメリカの正義と中東の正義が異なっているため戦争が起きていることなどわかりやすい例である。
自分の正義というものは当たり前であるが自分にとっては正義だ。つまり、自己のルールに沿う行動は道徳的である、と言える。
"自己"を行動の基点としているとも言い替えられる。
本当に道徳的に行動するには"自己"、つまり"自分の軸"が必要なのだ。

2012年3月13日火曜日

絶望の国の幸福な若者達レビュー





この前朝ナマで古市憲寿さん著「絶望の国の幸福な若者達」を取り上げて議論していたので、最近再読してみたのでレビュー。


※作者の主張が正しいとして展開します。

内容としては

・「仲間」がいる「小さな世界」で日常を送る若者たち。これこそが、現代にいきる若者たちが幸せな理由の本質である。

・「小さな世界」の中に生きているならば、いくら世の中で貧困が問題になろうと、世代間格差が深刻な問題であろうと、彼らの幸せには影響を及ぼさないことになる。

に集約されている。

自分を含む「小さな世界」のみが「自分の世界」であって、それ以外の世界はあまり関係がない。
さらにいえば、「別の世界の話」なのでリアルに感じない。
政治がどうなろうが、自分たちがどうこうできる話ではないのでリアルを感じないのだ。
さらに言えば、巻末で佐藤健さんが言っていたように「今が幸せだし消費税が上がろうが政治がどう動こうが関係ない、どう変わろうが自分は幸せに暮らせる」のだ。
これはもはやリバタリアニズム的考えで個人主義が蔓延しているように思えた。
自分の「小さな世界」が侵略されないのならばそこで個人個人楽しくやっていくさ。そう考えるのも無理がないと思う。

生まれたときから不況、政治家のスキャンダルの多発による政治不信、などなど「社会に対して僕らはどうしようもない」という無力感が蔓延している。それならば社会という関与できない、別の世界のことなんかより関与できる自分たちの世界を。
さらにいえば、自分たちの小さな世界で現代はいくらでも満足出来うる。

ほとんどの人は最低限の社会権は守られてるし、パソコンやゲームなどの娯楽品も持っている人も多い。
特に、昔と比べて娯楽が多様化され好きなものを安価でできるし、ましてやインターネットさえあれば無限大の情報にアクセスできる。
食事も高級寿司は無理でも安価で"そこそこ美味しい"ファストフードも食べられる。
つまり、多くを求めなくてもそこそこならば十分幸せを感じられる。
さらに、古市さんのいうように『現代日本には、恋人や友人に依存しない形で、僕たちの承認欲求を満たしてくれる資源が無限に用意されている』。
例えばSNSでいつでも誰とも繋がれるし、ニコニコ動画などを使えばプロのような扱いもも容易に受けられる。

今が満足でき、未来をリアルに感じない。そんな若者が、幸せに感じない理由などないのではないだろうか。

さて、ここで思ったのは、彼らはかりそめながらもマズローが言う人間の欲求、
・生理的欲求
・安全の欲求
・社会的欲求(所属と愛の欲求)
・承認の欲求
・自己実現の欲求
のうち最初の4欲求(欠乏欲求)は満たしている。


ということは最後のひとつ、存在欲求である「自己実現の欲求」が足りないのでそれを目指すのではないだろうか。
つまり、「自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求」が自らを動かす。

以前、『「意識の高い学生」ブームが今後社会に与える影響』という記事に書いたように、最近学生団体は乱立している。
学生団体とは「自己実現の場」。
なので、「自己実現の欲求」が満たされる場なので最近乱立してるのかな?とも思ったり。

しかし、記事に書いたように実際は「自己実現の場」というより「所属と愛の欲求」や「承認の欲求」に近い行動をする人が多い。
これはかりそめながらもマズローの4欲求を満たしたからなのではないだろうか。
かりそめの4欲求を満たして最後の関門であり、性質の異なる「自己実現の欲求」に辿り着いた(気になった)。
だけれども、結局満たしきっていなかったはじめの4欲求に戻ってしまった。
……そうとも考えられないだろうか?
だからちぐはぐな行動になる。

いかにこの「かりそめの欲求」を"かりそめ"じゃなくすかが今後の若者の鍵なのではないだろうか。
そのためには「小さな世界」という平和なエデンの園から脱出して「大きな世界」・・・それこそ文字通り世界を見たりするのが大切なんじゃないかなー、とか再読して思いました。

2012年3月11日日曜日

世代間でのラベルの張り合い・馬鹿にし合い。お互い正面から向き合ってない。



若者の○○離れとよく言われているがそれは本当なのだろうか。
例えば、若者の車離れ・若者の新聞離れ・若者のテレビ離れ・若者の読書離れ・若者の映画離れ・若者の飲酒離れ、若者のセックス離れ、などなど。
しまいには、若者は内向きなためスピードを出さないので若者の交通事故離れが起きてるとまで言われる始末。

本当にそれは悪いことなのだろうか、そもそも正当な評価なのか。

所得の変化、価値観の多様性により趣味の選択の幅の増加、インフラなどの強化などを考慮に入れず、交通事故離れのように大抵の記事は「若者は内向きになった」という結論になっている。
これらは「若者は車が好きで当たり前」のような「若者は○○をして当たり前」「○○が好きじゃない今の若者はおかしい」ということを前提に書かれると同時に、若者は「内向き」などの安易なラベリングがされると共に、産業が低迷している"戦犯"とされる。

それを受けて"若者"は「お前ら団塊の世代が頭おかしいんだろ」「バブルの異常な価値観を今に適用させんなカスw」と反論する。
そしてこれと類似した事例を積み重ねて行くことで「団塊世代」や「バブル世代」の人々への不信感を募らせていく

このようにして、現代では若者VS非若者の馬鹿にし合いが起きている。
確かに若者……さらにいえば最もラベリングされやすい「ゆとり世代」である僕も「ゆとりゆとりって馬鹿の一つ覚えみたいに不当なレッテル貼って全体に適用させんなよ」と思うことは多々ある。

しかし、よくよく考えると僕たち"若者"だけが不当なラベリングをされているわけではない
僕たち若者も"老害"をはじめとして「バブル世代は感覚がおかしい」「団塊は自分たちが主役気取りで頭硬い」とラベルを貼っている。
ものすごーく当たり前のことではあるのだが、案外みんな被害者ぶるだけぶって「自分たちも安易なラベルを貼っている」のに気がついていない。

つまりお「団塊死ね」というのも「ゆとりは馬鹿」というのも結局のところ同じではないだろうか。
僕たち若者からしたら「団塊の価値観で見てゆとりのやつらはおかしいと馬鹿にしてくる」というが僕たちも"若者の価値観"で見て「団塊は自分たちが主役気取りで頭硬くておかしい」などと言っている。

さて、安易なラベリングをすることで、どういうことが起きるか。
「世代論のワナ」という本にはまずこう書いてある。
『なんとなくその世代のことがわかった気になれる。』
安易なラベリングほど楽なものはない。世間で言われていることをそのまま鵜呑みにすればいい、それだけでなんとなくその世代のことがわかった気になる。
そして、やっかいなことに一度自分の中でそのラベリングをしてしまえば納得をしやすいというところもある。
坊主憎けりゃ袈裟も憎い、ではないが一度そう思いこめばすべてがそう見えてしまう。

たとえば「ゆとり世代は根性がない」とラベリングしてしまっていれば、たまたま部下のAくんが何かに諦めてしまうだけで「やっぱりゆとりは根性がないんだなぁ」と思いゆとりの法則として自分の中で確立化していく。
ちなみにこの場合、Aくんがたまたま投げ出した同程度のことでも他の世代の人がした場合その世代は「根性がない」と見なされづらい。「ゆとり世代の」Aくんが「投げ出した」から、根性がないとみなされるのだ。

ただし、みなさん御存じの通りラベルが絶対正しいとは限らない。
つまり、世代間でラベリングをし合い、お互い虚像を相手にわかった気になって、正面から向き合うことがない。

ラベリングなどせず世代など関係なくまずは「一人の人間」として見ることが当たり前だが大切なのではないか。
と、同時に、ラベリングという安直な方法を取らずにきちんと正面から向き合い、話し合うことで相手の視点の根拠もわかりお互い「よくわからないもの」ではなくなり、相互理解が生まれるのではないだろうか。
安易な締めくくりではあるが、本当にそう感じることが多い。

ちなみに、大人たちに自分たちの世代の価値観(草食系とか)が何故起きるかの説明を自分らなりに説明したら結構ウケます。「よくわからない」からこそ、不思議がり、おもしろいのだ。

2012年3月8日木曜日

大学生に強制的に勉強させるのってどーなのよ


このたび、大学分科会大学教育部会が大学生の勉強時間が少ない!ってことでその対策をした大学には財政面で優遇(補助金とかかな?)するよ♪っていうのを2013年度にも適応する予定
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120307-OYT1T00669.htm?from=tw

文科省のHPなど見ても一次情報がないので憶測になるが、この案はどうなのだろうか。
大学側の措置として「自主的に勉強させるのを促す」となると効果が弱いので、「強制的に勉強する時間を取らせる」ということになるだろう。
例えば、今まで通りだと「授業でレポートを多く作らせるようにする」程度だと考えられるが、

勉強時間を増やす方策を講じたりした大学を、財政面で優遇するべきとする

となっているのでもちろん文科省への報告義務があるのだろう。
そうなると、「授業でレポートを多く作らせるようにする」だと少し弱い。
また、

こうした学生の評価を覆してグローバル化時代に対応できる能力を育成するために、大学に対し、学生の知性を鍛える課題解決型の授業の導入など、質の高い教育に転換するよう求めている。

とのことから、課題解決力を養わせたり、TOEIC対策のe-ラーニングにするのではないかなー、と思う。
この場合教授陣の手間はかからないし、問題を解くので「勉強感」がある。そしてなによりも何時間勉強したかがわかる。

さて、そもそもこのように「学生に強制的に勉強時間を作らせる」というのは正しいのだろうか。
2つほど懸念点があって、
まず1つ目は「強制的にやらされることで本当にタメになるのか」ということ。
「グローバル人材を育てる」というのが理念っぽいけど、人に強制的にやらされることを画一的にやってて本当にグローバル人材になれるの?
そもそもこれって散々議論されてきた「詰め込み教育」への再起じゃないの?

グローバル人材という言葉が抽象的すぎて文科省での像がわからんのでとりあえず経団連の学生に求めるグローバル人材の定義っぽいものが書いた資料から借用

・社会人としての基礎的な能力に加え、日々、変化するグローバル・ビジネスの現場で、様々な障害を乗り越え、臨機応変に対応する必要性から「既成概念に捉われず、チャレンジ精神を持ち続ける」姿勢、
さらに、多様な文化・社会的背景を持つ従業員や同僚、顧客、取引先等と意思の疎通が図れる「外国語によるコミュニケーション能力」や、「海外との文化、価値観の差に興味・関心を持ち柔軟に対応する」
こと

・、異なる文化や価値観への関心を持つとともに、日本の文化や歴史、哲学などの学習を通じて、物事を考察する際の基礎となる思考力を身につけている。
大学におけるリベラル・アーツ教育の拡充を通じて、文科系、理系等の専門科目に捉われず、幅広い視野や、基礎的思考力を持つことが重要


えー、長くてかたっくるしいんで大雑把に言うと「ビジネス能力があって、根性があって、柔軟な思考ができて、言語力とコミュ力があって、他の価値観を受け入れ理解する度量があって、日本のこともよく知っていて、文理関係なく知識がある」
・・・どこの超人だよwwwって思わず突っ込みたくなりますね。
まぁ能力面はさておき、姿勢だけみると
「自分の意見を持っていて(自分の頭で考えて)、行動し、問題解決をする」ような人材のことを示すのではないだろうか。
と、なればそれこそ人に強制的にやらされるような勉強しかできないのはどうなの?と思う。

で、2つ目。「自分から目標を定めて努力をする人の勉強時間を阻害する」
学校側から強制的にやらされるということは、その分自分の勉強ができなくなる。と、いうことは「自分から勉強をする人」は阻害される。
・・・あれ、「自分から勉強する人」って文科省が求める「グローバル人材」に近い人なんじゃないの?自分たちからそれを潰しにかかってるんじゃないの?


確かに、強制的に勉強させることで学生全体の学力は向上すると思う。
だけれども、一部の意欲的な学生はその被害を被る。
つまり、今までの日本の出る杭は叩く平等教育と同じく「上の上はいないけれど、みんな中の上」といったようになる。だが本当にそれでよいのだろうか。これから沈んでいくだけの日本に今までにない発想の「天才」を生むには「中の上」の人間だけでよいのだろうか。

上手く「自分から勉強する人」の邪魔をしないで、「勉強しない人」を勉強させられるようなきめ細やかな対応をしてもらいたいと切に願う。


余談!
はじめから「強制的に勉強するようなところ」(例えば厳密には違うが国際教養大学とか)に行きたい人もいるしそれも別にいいと思う。
しかし、そのようなところでない場所、つまり「自由に遊んだり学問を学んだりする場所」を選んだ人に「強制的に」勉強させるのはどーなんよ、って話。というか、「強制的に勉強するところ」って書いたけど自らその場に行くってことは"強制的に"勉強じゃないしね。

2012年3月3日土曜日

山月記とスヌーピーから学ぶ、"自分"を取り扱う方法。

『山月記』という小説がある。
おそらくみんな高校の頃学校の授業で習ったと思うが、簡単なあらすじを書くと、

李徴はかつての郷里の秀才だった。しかし、片意地で自負心が強く、役人の身分に満足しきれなかった。彼は官職を辞し詩人として名を成そうとするも、うまく行かず、ついに挫折。小役人となって屈辱的な生活を強いられたが、その後、地方へ出張した際に発狂し、そのまま山へ消え、行方知れずとなった。

翌年、彼の数少ない旧友で高位の役人であった袁傪は虎の姿となった李徴と出会う。
なぜ虎になったのか。自分は他人との交流を避けた。皆はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。
本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して才を磨くのも嫌がった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。
(wikipediaからはしょりつつ引用)

私はこの小説を初めて読んだときに衝撃を受けた、と同時に「これは自分の将来ではないか」と感じた。
自意識ばかり高く、自分は能力が高いと思いこむ。
しかし実際にその能力を発揮させる場にいかない。何故か。自分に実は能力がないという現実がもしかしたら露呈するかもしれないからだ。

もしこのまま現実を知らず、このような臆病な自尊心と尊大な羞恥心を飼い太らせてしまうと虎になってしまうのではないだろうか。
―――もちろん"虎になる"というのは比喩表現であるので現実に当てはめるならば、自尊心が自分を乗っ取り暴走して人々を傷つけるだけの存在になってしまう、ということになる。

自分は優れていると誰でも思った経験はある。
だが実際にその"優れている"を試そうとした人は少ない。
と、いうことは皆少なからず虎になってしまう可能性はあるのではないだろうか。

ではそれを防ぐにはどうすればいいのだろうか。

この話で虎になった李徴は後悔しながらこう語る。

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。
それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。

『才能の不足が露呈するのを恐れず人々の中で自分の能力を試し、磨く』
これだけでいいのだ。
これは「まだまだ上には人がいる」、それを自覚しつつ、なお進めばいいのだ。
昔の人も、「高くなった鼻をおる」「井の中の蛙、大海を知る」といった表現で似たようなことを言っている。

さて李徴の場合実際に非凡な才能を持っていたようだが、多くの人は平凡な才能しかない。しかしそのような人でもこの教訓は利用できる。
世の中に出て、自分が凡人だと自覚する。そこで「自分は凡人だから・・・」とやけにならずそれでもなお上に進みたいと思うのならば、凡人ということを自覚しつつ積極的に人と交わる。
その過程で何らかの『強み』を発見する。そして凡人は凡人なりに非凡な人に追いつく努力をするべきではないだろうか。

スヌーピーの言葉でこんなものがある。
ルーシー「時々、あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…」
スヌーピー「配られたトランプで勝負するっきゃないのさ」「それがどういう意味であれ」


漫画や映画のようにいきなり能力が現れて違う自分になることなんて現実にはない。
自分は自分なのである。
結局のところ天才を羨む前に、与えられた自分の能力でこの世を勝負していくしかないのだ。
ならば、自尊心を臆病にさせず、羞恥心を尊大にさせず、己という現実を自覚しそれを磨いていくしかないのではないだろうか。

2012年3月1日木曜日

「意識の高い学生」ブームが今後社会に与える影響



昨今、社会的なことに対して興味が強い学生、通称『意識の高い学生』のブームが起きている。

彼らは学生なのでもちろん社会に出ていない。
そのため、世間知らずではあるがそれゆえ潔癖で正義感が強く「今の社会を良くしよう!」と考えて行動している。

彼らが大人になってもその潔癖な気持ちを忘れず心に留めて社会の中を動き社会の中心になれば、今の日本の癌である既得権益層、つまり一部権力者が社会に悪影響を及ぼすことを省みず自らの利益をむさぼるような構造を打破できるのではないだろう。

だが、そもそも彼らは今の潔癖な気持ちを忘れず年を取れるのだろうか。

私が思うに、意識の高い学生ブームというのは生まれたときからの不景気をはじめとした厭世、ましてや就職不安からくる『何者かにならなくてはいけない』という圧力からくる不安が根底にあると思う。
そのような『何者にもなれていない平凡な自分』は『社会的に良い』とされることを行うことで『何者かになれた』と錯覚し承認欲求が満たされる。
つまりこのブームは『何物にもなれていない』という、ある意味コンプレックスといえるものが根底となっている人が多い。
(もちろん、社会に対する正義感や自分が面白いと感じたことがたまたまそのような活動だった人もいるが)

もしそのコンプレックスが正しいならば、承認欲さえ満たされたら代替は可能だ。
今はたまたま目につきやすい学生団体がそのための拠り所となっているだけだ。

ならば、承認欲が最も満たされるうちのひとつである権力というものを手に入れたとき、それが社会害悪である既得権益のようなものでも依存するのではないだろうか。

このような仮定をたてた理由として、『意識の高い学生』と呼ばれる人たちと多く会ってきて、『学生団体』という権威に自らのアイデンティティを預けている人が多く感じたからだ。
学生団体に入ることで満足して、自らは考えず動かず、使い走りになっているだけなのに「自分はすごいことをしている!」そのような人を多くみてきた。
「ファッション感覚で学生団体活動をしている」とも言い換えれる。
「学生団体に所属すること」は何かを達成するための手段ではなく、承認欲が満たされる目的なのだ。

そのような人たちは「スゴイと言われている~と知り合い!」「社長と知り合い!」といったことをとても価値あるように感じている。また、セミナー主催者などの(学生から見たら)すごい人の言うことに絶対的信頼を置く。

『すごい人』を教祖様とする宗教に近いかもしれない。神様でもいいのかな、多数の「すごい人」を崇める多神教。
そのため、端から見ていて教祖様を絶対視し、思考停止をしておりすごく危なっかしい。

そう考えると今の意識の高い学生ブームは昔流行った学生運動のように、かつての気概は大人になって霧散し、結局のところ何も影響を及ぼさないのではないだろうか。


しかし、もちろん中にはファッション感覚ではない人もいる。
彼らは、自ら望む『社会をよくする』ということへの『手段』として学生団体に入るなり作るなりして、常に自分の頭で考え、行動している。
彼らのような権威に従属せず、自らの正義の道を突き進むような学生が増えれば今の日本のような一部の既得権益層が得をし、それ以外が不利益を被るような社会構造は変わるのかもしれない。