2012年3月3日土曜日

山月記とスヌーピーから学ぶ、"自分"を取り扱う方法。

『山月記』という小説がある。
おそらくみんな高校の頃学校の授業で習ったと思うが、簡単なあらすじを書くと、

李徴はかつての郷里の秀才だった。しかし、片意地で自負心が強く、役人の身分に満足しきれなかった。彼は官職を辞し詩人として名を成そうとするも、うまく行かず、ついに挫折。小役人となって屈辱的な生活を強いられたが、その後、地方へ出張した際に発狂し、そのまま山へ消え、行方知れずとなった。

翌年、彼の数少ない旧友で高位の役人であった袁傪は虎の姿となった李徴と出会う。
なぜ虎になったのか。自分は他人との交流を避けた。皆はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。
本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して才を磨くのも嫌がった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。
(wikipediaからはしょりつつ引用)

私はこの小説を初めて読んだときに衝撃を受けた、と同時に「これは自分の将来ではないか」と感じた。
自意識ばかり高く、自分は能力が高いと思いこむ。
しかし実際にその能力を発揮させる場にいかない。何故か。自分に実は能力がないという現実がもしかしたら露呈するかもしれないからだ。

もしこのまま現実を知らず、このような臆病な自尊心と尊大な羞恥心を飼い太らせてしまうと虎になってしまうのではないだろうか。
―――もちろん"虎になる"というのは比喩表現であるので現実に当てはめるならば、自尊心が自分を乗っ取り暴走して人々を傷つけるだけの存在になってしまう、ということになる。

自分は優れていると誰でも思った経験はある。
だが実際にその"優れている"を試そうとした人は少ない。
と、いうことは皆少なからず虎になってしまう可能性はあるのではないだろうか。

ではそれを防ぐにはどうすればいいのだろうか。

この話で虎になった李徴は後悔しながらこう語る。

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。
それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。

『才能の不足が露呈するのを恐れず人々の中で自分の能力を試し、磨く』
これだけでいいのだ。
これは「まだまだ上には人がいる」、それを自覚しつつ、なお進めばいいのだ。
昔の人も、「高くなった鼻をおる」「井の中の蛙、大海を知る」といった表現で似たようなことを言っている。

さて李徴の場合実際に非凡な才能を持っていたようだが、多くの人は平凡な才能しかない。しかしそのような人でもこの教訓は利用できる。
世の中に出て、自分が凡人だと自覚する。そこで「自分は凡人だから・・・」とやけにならずそれでもなお上に進みたいと思うのならば、凡人ということを自覚しつつ積極的に人と交わる。
その過程で何らかの『強み』を発見する。そして凡人は凡人なりに非凡な人に追いつく努力をするべきではないだろうか。

スヌーピーの言葉でこんなものがある。
ルーシー「時々、あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…」
スヌーピー「配られたトランプで勝負するっきゃないのさ」「それがどういう意味であれ」


漫画や映画のようにいきなり能力が現れて違う自分になることなんて現実にはない。
自分は自分なのである。
結局のところ天才を羨む前に、与えられた自分の能力でこの世を勝負していくしかないのだ。
ならば、自尊心を臆病にさせず、羞恥心を尊大にさせず、己という現実を自覚しそれを磨いていくしかないのではないだろうか。

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