2012年3月11日日曜日

世代間でのラベルの張り合い・馬鹿にし合い。お互い正面から向き合ってない。



若者の○○離れとよく言われているがそれは本当なのだろうか。
例えば、若者の車離れ・若者の新聞離れ・若者のテレビ離れ・若者の読書離れ・若者の映画離れ・若者の飲酒離れ、若者のセックス離れ、などなど。
しまいには、若者は内向きなためスピードを出さないので若者の交通事故離れが起きてるとまで言われる始末。

本当にそれは悪いことなのだろうか、そもそも正当な評価なのか。

所得の変化、価値観の多様性により趣味の選択の幅の増加、インフラなどの強化などを考慮に入れず、交通事故離れのように大抵の記事は「若者は内向きになった」という結論になっている。
これらは「若者は車が好きで当たり前」のような「若者は○○をして当たり前」「○○が好きじゃない今の若者はおかしい」ということを前提に書かれると同時に、若者は「内向き」などの安易なラベリングがされると共に、産業が低迷している"戦犯"とされる。

それを受けて"若者"は「お前ら団塊の世代が頭おかしいんだろ」「バブルの異常な価値観を今に適用させんなカスw」と反論する。
そしてこれと類似した事例を積み重ねて行くことで「団塊世代」や「バブル世代」の人々への不信感を募らせていく

このようにして、現代では若者VS非若者の馬鹿にし合いが起きている。
確かに若者……さらにいえば最もラベリングされやすい「ゆとり世代」である僕も「ゆとりゆとりって馬鹿の一つ覚えみたいに不当なレッテル貼って全体に適用させんなよ」と思うことは多々ある。

しかし、よくよく考えると僕たち"若者"だけが不当なラベリングをされているわけではない
僕たち若者も"老害"をはじめとして「バブル世代は感覚がおかしい」「団塊は自分たちが主役気取りで頭硬い」とラベルを貼っている。
ものすごーく当たり前のことではあるのだが、案外みんな被害者ぶるだけぶって「自分たちも安易なラベルを貼っている」のに気がついていない。

つまりお「団塊死ね」というのも「ゆとりは馬鹿」というのも結局のところ同じではないだろうか。
僕たち若者からしたら「団塊の価値観で見てゆとりのやつらはおかしいと馬鹿にしてくる」というが僕たちも"若者の価値観"で見て「団塊は自分たちが主役気取りで頭硬くておかしい」などと言っている。

さて、安易なラベリングをすることで、どういうことが起きるか。
「世代論のワナ」という本にはまずこう書いてある。
『なんとなくその世代のことがわかった気になれる。』
安易なラベリングほど楽なものはない。世間で言われていることをそのまま鵜呑みにすればいい、それだけでなんとなくその世代のことがわかった気になる。
そして、やっかいなことに一度自分の中でそのラベリングをしてしまえば納得をしやすいというところもある。
坊主憎けりゃ袈裟も憎い、ではないが一度そう思いこめばすべてがそう見えてしまう。

たとえば「ゆとり世代は根性がない」とラベリングしてしまっていれば、たまたま部下のAくんが何かに諦めてしまうだけで「やっぱりゆとりは根性がないんだなぁ」と思いゆとりの法則として自分の中で確立化していく。
ちなみにこの場合、Aくんがたまたま投げ出した同程度のことでも他の世代の人がした場合その世代は「根性がない」と見なされづらい。「ゆとり世代の」Aくんが「投げ出した」から、根性がないとみなされるのだ。

ただし、みなさん御存じの通りラベルが絶対正しいとは限らない。
つまり、世代間でラベリングをし合い、お互い虚像を相手にわかった気になって、正面から向き合うことがない。

ラベリングなどせず世代など関係なくまずは「一人の人間」として見ることが当たり前だが大切なのではないか。
と、同時に、ラベリングという安直な方法を取らずにきちんと正面から向き合い、話し合うことで相手の視点の根拠もわかりお互い「よくわからないもの」ではなくなり、相互理解が生まれるのではないだろうか。
安易な締めくくりではあるが、本当にそう感じることが多い。

ちなみに、大人たちに自分たちの世代の価値観(草食系とか)が何故起きるかの説明を自分らなりに説明したら結構ウケます。「よくわからない」からこそ、不思議がり、おもしろいのだ。

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