2012年4月25日水曜日

その人の価値がわかる瞬間

大学の仲が良かった女の子が突然持病で亡くなりました。

彼女は人当たりがよくてすぐ誰とでも仲良くなれる子で、友達も多くみんなに好かれていました。
亡くなった報せがあった日、多くの人が沈みこんだ表情をしていたし報せを聞いた瞬間泣き崩れる人もいた。
案の定、葬式でもほとんどの人が泣いていた。

想いの強さが涙と比例する、とは必ずしも言えないので泣いてないから想いが弱いというわけでもないが、少なくとも泣いていた人は想いが強かったはず。
つまり彼女は多くの人に想われていたわけだ。

どれだけその人が他人の大事な存在であったかは葬式でわかるのではないだろうか、と葬式に初めて参列して感じた。
そして、自分は今死んだ場合に多くの人に泣いてもらえるような存在であるのだろうか。

誰にも想われない生き方など、何の意味もないと思う。
ならば、どれだけ想われていたということがわかる葬式というものは、その人の人生の価値というものがわかる瞬間ではないだろうか。

だから多くの人に想われていた彼女の人生はとても意味があったし、良い葬式だったと思う。

2012年4月18日水曜日

何のために生まれて何をして生きるのか



「何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ」という誰でも聞いたことがあると思う某歌詞。
僕は「とりあえず楽しかったら正解」といったスタンスだから、答えとしては「楽しむために生まれて楽しみながら生きる」。

結局世の中なんて楽しんだものがちで、地位とか名誉とかそんなことにはあまり価値を感じない(楽しむための道具として肩書とか利用することはあるけど)

「地位とか名誉があるのを楽しいと思う人もいるのでは?」
と感じる人もいると思う。
じゃあなんで僕の場合これは除外なのかというと、「純粋な楽しいじゃないから」。
地位や権力は結局のところ他者がいて初めて生まれ、優越感だとかそういうことに由来している。更に言えば"他人発の楽しさ"だと思う。
それは"歪んだ楽しい"であって、"純粋な楽しい"ではないように思える。

僕はファッションで何かをしている人も嫌いなのだけれど、これも「本人が楽しそうにしているからいいのでは?」とも言える。
しかし、先ほどと同様に"ファッションでする"というのは純粋にその行為が好きなのではなくて"○○してる俺かっこいい"という他人あり気なものだと思う。だから、行為区分自体は同じことをしていても「周りにかっこいいと思われるからやっているか」「純粋に好きだからやっているか」によって自分の中での判定は違う。

「何故ファッションでやるのが嫌いなのか」ということを掘り下げると、「実際は楽しくないのに楽しいという」といった感じで嘘という歪みが生まれると共に、自分にも嘘をつき騙していることになる。他人を気にしてばかりいてそこに"自分"は介在していないように感じる。

「自分に嘘をついてまで、他人にかっこよく思われたいのか?というか、そんなに周りに流されてばかりで本当に楽しいのか?」
そんな気持ちが、ファッションで何かしている人を見るたびに思う。

ただ、ファッションでやってたとしても完全にファッションのみという人はいない。
例えば、「ボランティしてる私かっこいー☆」が(表面上はどうあれ)メインであったとしても、やはり「人を助けたい」という気持ちは必ずしもある。
だから"ファッション" "ファッションじゃない"と二元論で割りきれるものではない。
だから正直、バッサリと「お前は間違っている、やめろ!」と言い切ることもしづらい。(ボランティアだと「偽善でもなんでもされた側は助かる」という面も絡んでくるし)
そのあたりの自分の中の上手い落とし所は前からの悩み所であったりする。

世の中は二元論では割り切れないのだ。

2012年4月17日火曜日

自分なりに思うリーダーの役割


リーダーとか代表とかそういうトップの人の役割を自分なりにまとめた。
まぁグループのメンバーによっても変わるので、どの場合でも共通してそうなとこだけ。

・モチベ管理

メンバーのモチベーションをいかに初期の高い状態から下げさせないか、更に言えばあげられるか。
団体での活動の一番の敵はメンバーのやる気が下がり上手く機能しないことだと考えている。やる気さえあれば下手でもそのうち成長する。(もちろん下手のままにさせるとその人のモチベも下がることになるけど)


・道を示す

「どうやったらいいか・なにをしたらいいかわからない」という状況からいかに「どうしたら・なにをしたらいいか」を示す。
リーダー以外の人で、自分でそれを見つけられる人もいるが、やはりリーダーがそれを示すと"全体の"方向性が定まる。
そして、これは「なにをしたらいいのかわからない」というモチベーションが下がりやすい要因のひとつを消せるので前述の話にも繋がる。

・仕事を振り分ける

正直「道を示す」と似ているのだけれど、「~します!」となったときに誰にその仕事を振るか。
自分から進んでやる人がいるとしても、全員が全員とも限らない。その場合、「進んで挙手をしない・できない人」はいつまでたってもメインで動けない。
だから、そういうときのためにあえて「これは~やってね」と任せる決断をする。

・嫌われ役
まぁリーダーって立場上、偉そうな役割をしてしまうからどうしてもメンバーから愚痴が出てしまうこともある。
だけど、嫌われるのを恐れてみんなの意見を聞きすぎると動きが遅くなる。
みんなの意見を無視しろというわけではないが、適度に聞いて、指示を与えるという決断をしなければいつまでたっても進まない。だから、嫌われることを恐れない。(嫌われても構わない、というわけではないので注意。嫌われずに動かせれル奈良それにこしたことはない)

信頼を得る
信頼を得ないと何を言ってもあまり相手に響かない。信頼を得るには自分からメンバーより先にたって動いていることをみせるのが一番てっとり早い気がする。

・メンバーを観察する
メンバーの様子をよくみる。よくみることで、モチベーションが下がっている人には上げれそうなことを任せて処置ができるし、適正がわかることで振りやすい仕事がわかる。みんなの雰囲気で道を示すタイミングがわかる。「嫌われる」に関して、本当に嫌われているのか、軽い愚痴程度なのかがわかる。

と、こういった感じなのがリーダーの役割かなぁ、と軽くメモ。


【おまけ】
副リーダーの役割は大雑把に言えばリーダーの補佐。
リーダーにアドバイスしたり、役割についてリーダー外からの意見をリーダーに与えて助言したり、役割のための調査したり、リーダーが嫌われるのをサポートしたり。
基本的にはリーダー・リーダー以外が動きやすくするための潤滑油の役割。
あえて、舞台裏に徹しない役割を上げると「雰囲気作り」かな?

2012年4月13日金曜日

こころ(夏目漱石)書評。人間のエゴという本質を取り扱った現代にも通じる古典名作。


夏目漱石の「こころ」、高校1年のときに読書感想文ではじめて読んで以来何回か読んでいるけど「山月記」と共に個人的バイブル。

「こころ」でよく名言としてあげられるのは「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という"先生"の親友であるKが言った台詞。
僕も昔はこの台詞が一番好きで、今でも好きなのだが、久しぶりに読み返してみるとそれより感銘を受けた台詞がある。

「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな
鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんで
す。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に
変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」


タイトルの「こころ」が表しているようにこの小説は人間のこころを表した作品で、おそらくこの台詞が一番タイトルを表すのにふさわしいのではないだろうか。

"先生"は昔遺産の相続の関係で、かつては善人であった親戚に騙されてこのような人間にはなりたくないと考える。
しかし、その後"先生"は親友であるKと恋愛で争い、そしてKを出しぬき恋愛に勝った結果Kは自殺してしまう。
そして、"先生"は自分もあれほど酷い存在だと思っていた親戚と同じように、ある日善人から悪人となってしまったことに気づく。

これは、どんな時代もありえることで、例えば社会問題である"いじめ"とかでも「いじめられている子が可哀想だとは思うし、本心ではいじめたくない。だけれどいじめに加わらないと今度は自分がいじめらるからいじめに加わる」というのもその一種だろう。

このように、鋳型にはめたような絶対的悪人などこの世にはいない。しかし、ある状況では悪人となる。
逆に考えれば、鋳型にはめたような絶対的善人もいないのだ。

・余談
数ある中から"いじめ"を例に出したのは、これは大人だけではなく子どもという純粋な存在でも適用できる人間のこころの本質ではないのか、ということい適していたからである。
「一緒に騒がないとハブられる」という意味で「学級崩壊」でもOK.



2012年4月9日月曜日

自己顕示欲と善意の混じった助言


鼻が高くなっている人というものは、えてして人の話を聞かない。
というより、聞きたくないようだ。

「自分はこんなにも酔いしれているのに、痛いところをついて興を覚ますな!」といった感じの防衛反応なのか、聞く耳を持とうとしない。

結構こういうのに僕はイラッっとくる。
もちろん、「より良い方向に進ましてあげたい」という気持ちが先にあると思いたいが、ムカつくということは「俺はお前のために言ってやってるのに無視すんなよ」という自己顕示的な偉そうな気持ちも多少なりともあるのだろう。そして、偉そうというのが言外から感じられて余計に拒絶をされたのであろう。
勝手におせっかいを焼いて、考えを押し付けて、拒絶されたら勝手にムカついて。我ながら器が小さい。

そういえば「葉隠」の一節に「助言をするときは相手に合わせた言葉使いを。さらにいえば信頼を築き、助言を素直に聞いてくれる関係になって言うべきだ。伝わらない助言なんて自己満足だ」みたいな一節があったような気がする。
前回のブログ記事にも繋がるのだが、信頼あっての言霊というのは真理だと思う。
ということは、信頼が築けていないのに助言をした自分が悪いということになるんだろうなぁ。

と、頭ではわかっててもムカつくものはムカつく。
と、同時に明確な拒絶をされているわけでこっちもちょっと傷つく。
拒絶をされればされるだけ、いちいち自分の労力をさいてまで他人にかまけるのがあほらしくなってくるので、年々助言は避けがちになるし、他人へ絶望すると共に興味が薄れる。

そのあたりのことを受け入れてなお、葉隠のいうようなことを実績し助言できる人というのが、自己顕示欲のない本物なのだろう。

ただ、ディアドクターという映画であった台詞だけど「誰かが倒れそうなときについ反射で手を出して倒れないようにしてしまう」ように、自分のエゴとかそういうのを全く関係無しに「誰かを助けたい」という純粋な気持ちもあるわけで、そのあたりのことは変に色々な思惑をつけたくないし大切にすべき感情なのだろうとも思う。
そういうときはやっぱり、自分のエゴなのかと自問自答をしたり、またありがた迷惑な助言になってしまうと一瞬思っても、それを押しとどめてつい言葉が出ることもある。まぁ言葉が相手に伝わらなかったらやっぱり悲しいのだけれど。
そこでイラッとくるか、悲しいかが「本物の気持ち」か「自己顕示欲混じりか」の簡単な判別になるような気もする。


【余談】
こんな感じで偉そうと思い相手もムカつくんだろうなというTHE・自虐

言葉を言霊たらしめ影響を与えるには




人が人に何か伝える一番手っ取り早い手段は「言葉」である。
自分の中では「言葉」が人の表面部分を、「ふるまい」が内部を見られているように思う。
しかし、ブログやtwitterなどのSNSでの自分の表現方法は言葉の一種である文字に限定される。
そのため、自分の思っていることを相手にできる限り伝えるために文章力の向上、細かいニュアンスを伝えるための語彙を増やすことは今の時代必要不可欠に思われる。

さて、「言葉」というのはあくまでその人の思っていることの一部を喋ることで外部に出しているにすぎない。
言葉という具体的なものになっていない、自分でも認識できていない抽象的なもやもやとした考えというものも人間には多くある。
そのため言葉というものは思考の全てではない。
なので、相手に何か伝えるさいに補完として、先ほど言ったふるまい・・・さらに言えば人格が必要となってくる。

「言葉には力がある」というニュアンスで「言霊」という単語が日本にはある。
普通の言葉を言霊レベルにまで昇華させるには、いかに言葉に人格を乗せられるか、そして相手にその人格を評価させるかがポイントだと思う。

やはり相手に何らかの評価をされていないと、言葉に乗せた人格が門前払いされるので言霊にならない。
「良いことを言っているのなら誰が言っているかじゃなく、何を言ってるかだけを素直に見る」のが本来は正しいのだけれど、現実問題として、やはり「誰がいったか」とまではいわなくても評価されていない人が言っても伝わらないことが多い。

(余談ではあるけど、このあたりのことはF・ベーコンが唱えた、人間に発生する4つの偏見の種類のひとつに劇場のイドラに通じるけど参考1参考2
簡単に言えば、「偉い人・権威ある立場の人が言うのだから正しいはずだ」という間違った認識のこと)

だからこそ、「人を動かす」だとか誰かに影響させたいのならば人格は必要不可欠だと思う。
ただ、人格だけみせても動けない人が多い。
周りにすばらしい人格を持っている人がいて、それにひっぱられて行動に移す人もいれば移せない人もいる。
だから、その自分の人格への補完としての言霊に昇華された言葉を使うことが誰かに影響を与えるには必要なのかな、とか思ったりする。

2012年4月3日火曜日

武士道に照らし合わせて、死ぬということ、自分というもの


最近思うことは、日本人の心として武士道というものは理想とする生き方ではないかと思う。

道徳体系として「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」という一節で武士道は表されている。
このように、仁義あふれ、礼節があり、ストイックで、それでいて強く美しい。日本人的美的感覚の極限イメージであると思う。
僕もこのような生き方をしていきたいと思う。
生き方に関して個々の要素で語りたいこともあるが今回は死ぬことに関して。

山本常朝が書いた葉隠の有名な一節として、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉がある。


個人的解釈となるが、これは自殺することを推奨しているわけではなく、常にその日死んだものとして日常を生きよ。それならば選択を間違わないはずだ、ということをいっている。
つまり、死を日常の行動原理のひとつとして取り入れろと言っているのである。

そこで自分の人生が終わるのならば、自分で何かを選択したうえで死にたい。
選択することでそこに己を介在さえせ、日々を生きよということをいっているのではないだろうか。

ブログ記事『自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね』でも触れたが、流れるままというのは他人の意志に身をゆだね思考停止をしているだけで、己を介在させていない。
だから、死ぬということも自然死はしたくない。死ぬならば、自分の意志で死にたい。
さらにいうならば、自分が自分のまま死にたい。例えば、ボケた自分はもう自分ではない。今まで積み上げてきた「自分」を帳消しにしてできた、自分の姿をした他人だ。

切腹というものがあるが、あれは敗北のような西洋的な自殺ではなく、名誉を守るための自由意志の極限的な現れであると葉隠では書かれている。
そして、その自殺をいつでもできるものではないという現実から前述のように、常に1日1日毎日死ぬことを意識し生きるということ、死を人生の最後の1ピースとして自己を形成させて死をもって人生を完結させる、といったことで「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という一説がつけられているのではないか。

最後に、余談となるが麻雀漫画で「天」という漫画がある。アカギという天のスピンオフ漫画の方が有名だが、その『天』の最強人物であり『アカギ』の主人公である赤木しげるは天の最後でアルツハイマーの前兆が現れる。そして、完全にボケて「赤木しげるとしての自分」が消える前に命を絶つことを決意し自殺をする。


そのときの死を止めようとする人々とのやりとりは一読の価値があるので、その最終巻だけでも読めるので是非読んでみてほしい。というか最後3巻分の赤木の最期編は様々な人生観がつまっていて単純に読んで欲しい。
そういえば手塚治虫のブラックジャックで、“死に神の化身”の異名を取りながら安楽死を請け負う人物がいたなぁ。


「俺が俺を全うするために命がある。まず、自分ありきだ。だから、意識に霞がかかったわけのわからない状態でただ命を長らえるなんてことは愚の骨頂。俺にはその意味がわからない。肝心の俺が消えた命に、どんな意味がある……?」by赤木しげる

2012年4月2日月曜日

理科離れの原因って?


理科離れというものが社会問題としてある。
軽く検索をしただけでも学術論文やら理科離れをなくす会だとか、教育指導要項やらいっぱい出てくる。

科学館やサイエンスカフェという手法を理科離れ対策があるが、多くは「理科の楽しみを見せる」という手法を取っている。
この「理科の楽しみを見せる」というのもなかなか曲者で、楽しみを見せるだけというものが多いように思える。
それはまるで遊園地のようで、その場では科学の不思議などを見せれられので楽しいのだが、その先の「なんで?」には繋がらない。
ありていにいうと「科学者の自己満足」につきあわされているだけで「科学ってすごいなあ」で終わってしまう。
一番大切なことは「なんでそうなるの?」と思わせ「自分でやろう」と思わせることだ。

大量消費物のように、おもしろいだけで終わらしてはいけないのだ。
そのためには、技術の成果だけを提示するのではなく、これこれこうでこうなった、じゃあこうなったらどうなるだろう?という、いわゆるアソビの枠が必要に思える。
完成された結果だけではそこで終わってしまい発展しない。

そのためには、やはりどうしてそうなるのか、という科学的理論は必要不可欠である。それはいっけんして難しいが、数式などを使わずに大ざっぱでも簡単に説明をする方法はいくらでもあるはずだ。
それを提示している「本来の科学のおもしろさを伝える場所」が少ないように思える。

たしかにそれは手間がかかることではあるし興味をしめさないで即物的おもしろさしか見ない人も多いかもしれない。しかし、本質であるそれを省くのは提示する側の妥協でしかない。
それができていないから、「科学という手法を使っただけの、遊園地となにも変わらない場」がはびこる結果となったのではないだろうか。

そもそも、本来そこの下地を作るのに一番適しているのはやはりテレビであると思う。
だが、そのテレビ自体難しいものの説明をわかりやすく伝えるという義務を放棄し、イメージ戦略になっているように思える。
はじめから「科学とは難しいものなんでわかる人にしかわかんないだろ」という態度が目に見えるのだ。

例として、最近では東北大震災に伴い原子力・放射能に対して世間での関心が高まり、色々な情報がマスコミ等によって発信されている。
でも例えば、○○ミリシーベルトという言葉が頻繁に使われますが、なんとなく数値が高いと危険!という認識はあれどそれが何を表しているかはっきりとわかる人は少ないように思える。

つまり、何がどう悪いだとか、数値の意味だとかの説明を放棄し、なんとなくのイメージで放射能問題に対して考えさせてしまっているように感じる。

イメージだけで伝える方がもちろん作り手としては楽なのではあるが、繰り返し言っているように説明を放棄しているとしか思えない。
そしてそれによって、子どもだけでなく子どもに教える立場である親(大人)の理科離れ・・・むしろ理科アレルギーが進行している。

だから、理科離れに対してどうすればいいのか、と問われたならば「マスコミを変える、または科学館の意識を変える」と答えるようにしている。