2012年4月3日火曜日

武士道に照らし合わせて、死ぬということ、自分というもの


最近思うことは、日本人の心として武士道というものは理想とする生き方ではないかと思う。

道徳体系として「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」という一節で武士道は表されている。
このように、仁義あふれ、礼節があり、ストイックで、それでいて強く美しい。日本人的美的感覚の極限イメージであると思う。
僕もこのような生き方をしていきたいと思う。
生き方に関して個々の要素で語りたいこともあるが今回は死ぬことに関して。

山本常朝が書いた葉隠の有名な一節として、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉がある。


個人的解釈となるが、これは自殺することを推奨しているわけではなく、常にその日死んだものとして日常を生きよ。それならば選択を間違わないはずだ、ということをいっている。
つまり、死を日常の行動原理のひとつとして取り入れろと言っているのである。

そこで自分の人生が終わるのならば、自分で何かを選択したうえで死にたい。
選択することでそこに己を介在さえせ、日々を生きよということをいっているのではないだろうか。

ブログ記事『自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね』でも触れたが、流れるままというのは他人の意志に身をゆだね思考停止をしているだけで、己を介在させていない。
だから、死ぬということも自然死はしたくない。死ぬならば、自分の意志で死にたい。
さらにいうならば、自分が自分のまま死にたい。例えば、ボケた自分はもう自分ではない。今まで積み上げてきた「自分」を帳消しにしてできた、自分の姿をした他人だ。

切腹というものがあるが、あれは敗北のような西洋的な自殺ではなく、名誉を守るための自由意志の極限的な現れであると葉隠では書かれている。
そして、その自殺をいつでもできるものではないという現実から前述のように、常に1日1日毎日死ぬことを意識し生きるということ、死を人生の最後の1ピースとして自己を形成させて死をもって人生を完結させる、といったことで「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という一説がつけられているのではないか。

最後に、余談となるが麻雀漫画で「天」という漫画がある。アカギという天のスピンオフ漫画の方が有名だが、その『天』の最強人物であり『アカギ』の主人公である赤木しげるは天の最後でアルツハイマーの前兆が現れる。そして、完全にボケて「赤木しげるとしての自分」が消える前に命を絶つことを決意し自殺をする。


そのときの死を止めようとする人々とのやりとりは一読の価値があるので、その最終巻だけでも読めるので是非読んでみてほしい。というか最後3巻分の赤木の最期編は様々な人生観がつまっていて単純に読んで欲しい。
そういえば手塚治虫のブラックジャックで、“死に神の化身”の異名を取りながら安楽死を請け負う人物がいたなぁ。


「俺が俺を全うするために命がある。まず、自分ありきだ。だから、意識に霞がかかったわけのわからない状態でただ命を長らえるなんてことは愚の骨頂。俺にはその意味がわからない。肝心の俺が消えた命に、どんな意味がある……?」by赤木しげる

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