2012年5月29日火曜日

自分が住んでいる国に対して還元しなければいけないという責任が僕らにはある?



僕らは生まれながらに責任を持つ。
例えば、育ててくれた親、友達、先生などなど...
しかし、案外忘れがちなのが『国についての責任』。

道路などの交通機関、警察などの治安維持、医療保険などの福祉、学校などの教育機関などなど。
生活において必ず国から恩恵を受けて僕らはこの日本という国に住んでいる。

これは"国"が公共政策として"日本国民"の"税金"を利用して作られている。そのため、それらを機能させる税金の大元は日本国民であるため、日本を良くすることでその恩恵を社会に還元する絶対的責任が日本に住んでいる限りある。



・・・という話をこの前聞いた。
確かに税金を使ったものを僕らは利用している。
ましてや、僕は小学校中学校高校、はてには大学まで公立なので恩恵を多くもらっているから余計にその責任はあるのだろう。
(国公立はだいたい3/4ほどが税金で賄っている、ちなみに私立は1/2くらい。国公立の理系や旧帝国大学はさらに割合が増える)


納得できるし、もっともな話だ。
ただ、個人的には何か違うと思う。
違うという言葉も何か違うわけだが、少し違和感を覚えた。


「国のお金を使って恩恵を受けている」という感覚が薄い。「税金は勝手に取られるもの」「私立大学より国公立大学の方が安い」「道路などは自然に与えられているもの」という感覚に近い。
そのため、この話を聞いても「あー、ありがたいっす。どもどもwww」くらいは思っても"絶対的責任"とまではどうしても真にせまって感じられない。

本来持って当然で、"絶対的義務"なのだろうがこのような感覚なので、繰り返しになるが何か違和感がある。

更に言えば自分が払っている税金も勝手に取られている感覚で、何かに利用されている感覚が薄い。そのため"税金を利用して僕らは生きている"と言う実感がない。


これはわりと一般的な感覚なのだろうけどやはり持たないといけない感覚なんだろうなぁ、でもなぁ。というゆとり世代のジレンマでした。


【余談】
この感覚が蔓延しているから世の中の人は税金を利用したこと、特に政治への感覚が薄くなってるのかなぁとか思ったり。

【余談その2】
この僕の感覚はようするに、"国への帰属意識が薄い"ということなのだろう。
近場の友人や家族へのコミュニティに属している感覚はあるが国にはない。
世代論の話を読むと若い世代になればなるほど、友人などの近場のコミュニティ、つまり横への帰属はあるが、会社や学校、国など大きなもの普遍的なものである縦の帰属意識が薄いらしい。
そのため、今後この感覚はさらに蔓延していくのではないかと思った。




【余談その3】
国への帰属意識はなくても近いコミュニティへの帰属意識はある。
だから、その近いコミュニティを大事にし恩恵を還元することは、国民全部といわないまでも"国民の一部"に還元することとなる。ならば、それは最終的に国に還元していることにもなるような気もする。

【余談その4】
俺「リバタリアンってどう思います?」
その人「あいつらはクズ。」


2012年5月13日日曜日

原発全停止

今更な話題。

枝野経産相「関西電力管内の計画停電計画を」
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120503-OYT1T00816.htm?from=top

原発42年ぶり全停止 今夏も「節電列島」
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20120506-946158.html

原発が子どもの日、5月5日に全て停止することになった。
さて、これはどうなんだろうか。

極端な例だが、こういう意見がある。
『脱原発のために生活レベルを落とすこと、たとえば江戸時代並みに戻すことは可能でしょうか?』
http://togetter.com/li/287840

原発停止の一番言われることが「子どもの将来を守る」。
たしかに原発は事故が起きた時今回のような被害が起きる。
ただ、原発を停止させると、「原発を含めた電力生産量を前提とした今の社会システム」が成り立たなくなる。
その例として計画停電などが起きているわけだけど、成り立たなくなった社会システム、例えば上記のリンクのような"江戸時代並の生活"は本当に"子どものため"になるのか。
さらにいえば、現代社会の進化において電気は必要不可欠である。
世界中の国より進化のスピードが遅れてしまう。ということは、日本という国が没落するのが早まる。
そうなると、それこそ"子どものため"にならないのでは?
原発の分をクリーンな自然エネルギー発電に代えれば良いなどというが、自然エネルギー発電はそれはそれで問題があるということを認識しての発言かどうかも不明である。
※昔まとめたのでデメリットはこちら参照→風力発電のデメリット太陽光発電のデメリット

というか、こういう人らはもし自然エネルギーのデメリットが原因で何か起きた時に原発のようにまた「騙された」とか主張すると思う。


なので、感情や想いも大切だが、現実的に考えてみて、想い・現実両面のメリット・デメリットどちらも考えたうえでスタンスを決めて欲しいと思う。
ちなみに僕は、原発を今は停止をさせず徐々に自然エネルギー発電に移行派です。
まぁ原発廃止することで、自然エネルギー分野へ資金などの後押しがきやすくなり技術革新が起きる可能性もあるけれどあくまで"可能性"だからなぁ。

2012年5月9日水曜日

議論するということ



議論というものがある。
このときに心がけておかないといけないことは"他人の主張を汲む"ということだと思う。
相手がどういう立場にあり、どういう意図でその言葉を発したか。
自分とまったく異なる意見でもできる限りそのあたりのことを考え、理解しようと試みる。
しかし、世の中には他人の主張を汲まず、自分の中の勝手に定義した言葉のまま、言い返す人もいる。

そのような場合、大抵議論がズレる。
そもそも、相手の意見を汲まない、つまり聞くつもりがなく"言いたいことを言いたいだけ"な状態なのでそもそも議論が成立しない。
言われた相手は、言葉を変え主張を再度繰り返す→相手は聞かない→言葉を変え主張を繰り返す→(以下ループ)となってしまい、何も議論は進まず平行線。
議論のための議論の時間だけが浪費されていく。












僕は反対意見にせよ、議論というものは好きだが、お互い言葉を組み合わない限り何も生まれない。
議論というものの僕の中のイメージは、違う価値観同士を組み合わせ共に積み上げ作っていくことだ。
意見を汲まないというのは、組み合わせ部分を探さないことなので積み上がるわけがない。
議論は"勝ち負け"ではないのだ。
共に異なる意見を擦り合わせ、新たな価値観を生みだす共同作業である。
それは、あるひとつの命題と、それに反対・矛盾する反命題との二つの相反する命題を、互いに否定しつつも生かして統合し、より高次元の段階である総合命題を導くヘーゲルのいう弁証法に近い。


また、議論に感情論を挟むな、とよく言うがそれはヒートアップしがちになるから相手を汲む気がないことが理由のひとつ。
"論理"という解きほぐすことで理解しやすくなるものではなく、個々の感情という汲みとりづらいものが提示されるため議論がしづらいないのが理由その2ではないかな、と思う。


ちなみに、余談だが「○○のくせに偉そう!」「性格が悪い!」などと言ったような、いわゆる"人格攻撃"というものは議論そのものと何も関係がない。
にも関わらず、自分の意見を否定されるとすぎに"自分を否定された" "敵対行動を取られた"と捉え、やっきになって相手の主張を汲まないどころか人格攻撃に走る人がときどきいる。
特に、"自分"というものに等しい"感情"で主張をする感情論に対して反論されるときによく見られる。

まぁ正直、議論に限らずにこれは会話をするときの当たり前の礼儀なわけだけれど。
会話は普通にできるのに、議論となると"相手を打ち負かす"という考えが強いのかできなくなる。
なんにせよ、人と人が言葉を交わすときならばどのような条件のときも"相手の話を聞く"、それが一番大切なことだと思う。

2012年5月6日日曜日

ノマドって言葉最近流行ってるよね





夢持てぬ若者、収入・年金・仕事「不安」8割
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120504-OYT1T00159.htm

15~29歳の8割以上が、仕事で十分な収入が得られるかどうかや、老後に年金を受け取れるかどうかに不安を感じていることが3日、政府の2012年版「子ども・若者白書」の原案で明らかになった。
少子高齢化が進み、雇用情勢も依然、不安定な中、若い世代が将来を見通せずにいる実情がうかがえる。政府は白書を6月上旬に閣議決定する方針だ。




とのこと。
「大企業でも今の世の中"安心"かどうかはわからない」とはよく言われていること。
大企業という"安心・安定"の殻に守られる、それで今まではまかり通っていたが今はその殻自体が安心・安定かわからない。


このように"絶対的安定神話"が崩壊した中で、最近はノマドという言葉をよく耳にする。


ノマドとは、

「オフィスのない会社」「働く場所を自由に選択する会社員」といったワークスタイル。
満員電車や残業から開放され、自分の時間を増やす豊かな働き方として注目されている。
「ノマド」とは遊牧民のことであり、いつも決まった場所ではなく、カフェや公園、お客さんのオフィスなどでノートパソコン、スマートフォンなどを駆使しネットを介して場所を問わずに仕事を進めること。
「サードプレイス」という自宅でもなく、オフィスでもない、第三の自分の居場所で仕事を行う新しいスタイル。


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%DE%A5%C9%A5%EF%A1%BC%A5%AD%A5%F3%A5%B0


とのこと。





要するに、自分の好きなところで、好きな仕事を、好きな量だけする、といった感じ。
まぁ「そんな好き勝手にやりたい仕事だけ選べないわwww」とか厳密には違いますがイメージはそんな感じ。
一言で言うと、「フリーランス」。

この言葉が注目されている要因の1つとして、大企業の安心神話が崩壊したというのは大いにあると思う。

誰かが作った殻に依存するのは、安全というものを他者に託すので自分の力ではどうしようもない。
それならば、自分で殻を作った方が目を届かしコントロールすることができる。


ただ、この働き方は全ての責任は自分が負わなければいけないから、"なんとなく"ではできないし能力や才能もいる。
"遊牧民"というイメージとは違ってシビアな世界であるため世間では賛否両論・・・というか、否の方が現実感ある意見だから強いのかな。
シビアな世界だからこそ、夢見がちであまったれてんじゃねーよ、といった感じ。
だけれども、無責任な発言ではあるけど、この世に産まれてきたならば自分のやりたいことをやりたいようにやって自分の力で"安心安定の殻"を作ればいいと思う。
どうせ安心安定がない世の中、将来が見えないならば、自分で将来を作ればいいと思う。
もし失敗しても、自分の手で作った人生ならば、他者に安心を依存し崩壊に巻き込まれる失敗よりもましなはず。

まぁ実際社会はそんなにも甘くはないわけだけれど、将来日本がどうなるかわからないからこそ、ノマドという働き方に限らず自分のやりたいことをやりたいようにやったらいいんじゃないかなー、という社会を知らない大学生の無責任あまったれ理論。

2012年5月3日木曜日

思考を停止させること





さて、以前のブログ記事に関してのご意見。


『思考に至ったと書いているが、それは思考停止では。思考停止してることは悪くないが、それを意識していないことはまずいんじゃないかな』


『なんやかんやあって、「楽しかったらそれでいんじゃね」という結論』に関しての警鐘ですね。


「いや、停止してないつもりなんだけど・・・」と思ったが、よくよく考えれば、そこから変わることもあるだろうけど、能動的にさらに先への模索はしてなかったなぁと気づかされた。
最終段階だと思っていなくても、自分から進化するつもりがないならば結局"思考停止"といっても差支えはない。そしてそれに気づいていなかった。

意識していない思考停止の何が悪いかというと、進化がなくそこで止まってしまう、さらにいうと考えが凝り固まってしまうこと。

思考停止をしているという意識があるならば、「とりあえず今のところはこんな考え。まだ模索して変化させるよ。」となる。
ニュアンス的には"思考一時停止"って感じだろうか。

このように、記事に関してなんらかのフィードバックがあると色々と考えさせられたり気づきがあるから楽しいなぁと思う。


2012年5月1日火曜日

挫折続きの人生



突然だけど自分語り。
僕は高校のときは工学デザイン系を将来的にやりたかったので受験では九州の某大学を受けた。
で、落ちて浪人へ。
予備校は高校のやつらがいない代ゼミへ(同級生は俺ともう一人(知らない人)以外はみんな駿台)。
そこで友達も作らずに自分なりに必死に勉強をして再度受験をしたけれど結局受験失敗。
自分の県で滑り止めとしてはちょうどいいレベルって以外特に理由も無く出していた国公立中期日程の兵庫県立大学理学部へ入学。
工学部ならまだしも、理学部。
自分のしたい分野と重なる部分はほぼなく、腐っていたけれど工学デザインの道をあきらめきれないで3年次編入試験を受験することを決意。
大学の勉強などもあるので、4月までに編入試験合格のメドがたたなかったら潔く諦めるということで、しばらく必死に勉強(編入試験は次年の夏頃)。
で、まぁ4月になる時点でメドがたたなかったので潔く諦めた。

・・・と、いうわけでやりたいこと、つまり"夢"に関して必死で追いかけて挫折して、復活してということを3回やってます。

さて、そのあとまた腐った学生生活が再開するわけですが、夏くらいに色々あって
「何か目標がないと俺はずっと腐っているだけじゃないのか」

「大学でやる学問に興味はまったくないし、今は完全に宙ぶらりん状態。逆にいえば今なら何でもできるのではないか」

「どうせこのまま何もしたいことはなしで、頭も悪くて、ならば普通にこのままでいたら何も為すことなく、ただの社会の歯車で終わるだけではないのか。つまり、このままなら人生は詰んでいるのではないか。どうせこんな負け戦の捨てたような人生だし変な道でも失敗とか今更関係ないし何をやってもいいのでは」

「ていうかもう楽しかったらなんでもよくね」
という思考に至った。


大学受験程度で人生もう駄目ぽとか鼻で笑う人もいるかと思うけれど、自分の中で今に大きく繋がってる「失敗をおそれずにやってみる」「楽しかったら正解」というスタンスの出所は、この受験失敗挫折パレードにあると思う。


"楽しむ"という観点では「失敗をおそれない」・・・厳密には「将来どうなろうがどうでもいいや」というのは強いと思っている。
楽しさだけじゃ世の中やってられない。

例えば、極端でおおざっぱな例だが「やりがいを感じられるが、将来への不安と賃金の安さの中小企業」「やりがいを感じづらいが、将来への安定と賃金の高さ」の2つで就職企業をどうするか迷ったりする大学生も多いと思う。
楽しいと感じれる方へ行こう、とするならば中小を選ぶ。
しかし就職という、人生の重要な局面(ましては新卒という現代就活で重要なカードを使うし)ではどうしても「将来の不安」がネックになる。

そのときに、「失敗をおそれない」ならば「将来の不安」などどうでもいいので素直に"楽しさ"だけで判断できるので迷わずに中小企業にいける。

それは人によっては何も考えないで刹那的に生きているように思えるのかもしれないが、僕はこのスタンスで人生を謳歌しようと思う。