2012年5月9日水曜日

議論するということ



議論というものがある。
このときに心がけておかないといけないことは"他人の主張を汲む"ということだと思う。
相手がどういう立場にあり、どういう意図でその言葉を発したか。
自分とまったく異なる意見でもできる限りそのあたりのことを考え、理解しようと試みる。
しかし、世の中には他人の主張を汲まず、自分の中の勝手に定義した言葉のまま、言い返す人もいる。

そのような場合、大抵議論がズレる。
そもそも、相手の意見を汲まない、つまり聞くつもりがなく"言いたいことを言いたいだけ"な状態なのでそもそも議論が成立しない。
言われた相手は、言葉を変え主張を再度繰り返す→相手は聞かない→言葉を変え主張を繰り返す→(以下ループ)となってしまい、何も議論は進まず平行線。
議論のための議論の時間だけが浪費されていく。












僕は反対意見にせよ、議論というものは好きだが、お互い言葉を組み合わない限り何も生まれない。
議論というものの僕の中のイメージは、違う価値観同士を組み合わせ共に積み上げ作っていくことだ。
意見を汲まないというのは、組み合わせ部分を探さないことなので積み上がるわけがない。
議論は"勝ち負け"ではないのだ。
共に異なる意見を擦り合わせ、新たな価値観を生みだす共同作業である。
それは、あるひとつの命題と、それに反対・矛盾する反命題との二つの相反する命題を、互いに否定しつつも生かして統合し、より高次元の段階である総合命題を導くヘーゲルのいう弁証法に近い。


また、議論に感情論を挟むな、とよく言うがそれはヒートアップしがちになるから相手を汲む気がないことが理由のひとつ。
"論理"という解きほぐすことで理解しやすくなるものではなく、個々の感情という汲みとりづらいものが提示されるため議論がしづらいないのが理由その2ではないかな、と思う。


ちなみに、余談だが「○○のくせに偉そう!」「性格が悪い!」などと言ったような、いわゆる"人格攻撃"というものは議論そのものと何も関係がない。
にも関わらず、自分の意見を否定されるとすぎに"自分を否定された" "敵対行動を取られた"と捉え、やっきになって相手の主張を汲まないどころか人格攻撃に走る人がときどきいる。
特に、"自分"というものに等しい"感情"で主張をする感情論に対して反論されるときによく見られる。

まぁ正直、議論に限らずにこれは会話をするときの当たり前の礼儀なわけだけれど。
会話は普通にできるのに、議論となると"相手を打ち負かす"という考えが強いのかできなくなる。
なんにせよ、人と人が言葉を交わすときならばどのような条件のときも"相手の話を聞く"、それが一番大切なことだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿