2012年7月16日月曜日

何も考えてない綺麗事を声高に上げるのはやめろ


世の中には綺麗事が多数あります。
「戦争はいけないことだから軍を今すぐ解体しろ」
「みんな平等」
「いじめられたら通報したらいいだろ、傷害だし公的機関だから教師と違って絶対動くから解決するだろ」
確かにその通りです。それそのものは正論です。
ただ、現実に則して考えるとどうでしょうか。

この世の戦争は"あり"ます。
何故あるかというと、起こす人たちのイデオロギーなり利権なりの欲や感情があります。
そのため、僕たちが人間である限り、さらに言えば動物である限り当たり前に持つ感情だから避けられないです。
「私は戦争をしてまで誰かを傷つけたくない」とある人は思っても、そう思わない人は必ず"います"。
世界中の人間の意思を統一する方法があるのならば話は別ですが、そんなもの夢物語です。

そんな夢物語な世界を作るための行動よりも、それらが"ある"ことを前提として、どうしたら良くなるかを考えるべきではないでしょうか。
理想は理想、現実は現実。理想に近づける現実を模索して動くべきではないでしょうか。
世の中には、理想"だけ"を声高に上げ、現実に当てはめたときのことを考えずそれを絶対的正義だとし押しつける人が多すぎるように思えます。

【補足】
軍は解体しろ→前述の理由でどこかの国は必ず軍を持つ。そのときに、軍を解体した国はどうやって自分たちを守るのか。

みんな平等→人の能力は平等じゃない。生まれも平等じゃない。高みに登ろうと頑張る人もいれば甘えてばかりで何もしない人もいる。さらにいえば、人である限り人より上にたとうとする者はいる。

いじめられたら通報→通報したあと、そのいじめられた子は周りからいじめられてないときと同じ環境にみれらない保障はあるのか。

2012年7月13日金曜日

哲学のすすめ



哲学というものがある。
カントだとかソクラテツだとか、そのあたりはみなさん名前くらいなら聞いたことがあるかと思います。
で、哲学というのは"小難しい"だとかそういうカタいイメージを持ってるかとも思います。

確かに言葉使いはいちいち難しかったりするけれど、よくよく読み解いてみると非常に体系立っているし、共感できる部分もあり面白いです。
twitterだとか書籍だとかでよくある"名言"というものが好きな人は絶対好きになりそう。

そもそも哲学というのはどんなものかというと、"人間の思考の学問"ではないでしょうか。
「頭の中で考えていること、そのことの答えを探す」、それが哲学。
「人殺しはいけないことなのか?」や「生きているってなんだ」といった、いかにも"哲学"なものから、「人に好かれるにはどうしたらいいだろう」といったみんなが普段考えていることまで何でも哲学っちゃ哲学。

さて、ここで何故哲学をすすめるかというと、人間である限り"考える"というのは必要不可欠であるから。
そして、その"考える"ということを深めて行くことで自分の軸を持てるし自立した"個人"ができあがり、みんなが幸せに生きられるから。(詳しくは『自分の軸を持つことは個人的には一番大切だし、面白い人は持っているよね』で)

人の考えというものはそれこそ千差万別です。しかし、それなりに共通する考え、世の中の法則というものがこの世にはありますし、似た考えを持つ人もいます。
"考え"を一生涯追及しつづけ言葉に表す、という行いをしてき、現代にも名を残しているのがカントやソクラテツなどの有名な哲学家と呼ばれている人です。
なので彼らの考えはそれなりにみんなが思っていることです。それに対する深い考察です。そのため、それに触れることで、自分の中のもやもやとした"考え"に近い言葉に対する答えを見つけられたりし、自分を形成することの手助けになるのではないのか、と思います。

そのため、僕はこの答えのない世の中に生きるみなさんに、哲学の勉強をすすめます。

2012年7月7日土曜日

理系に教養を!脱・専門馬鹿



東工大に新規設置されたリベラルアーツセンターの3人(桑子敏雄、上田紀行、池上彰)の対談連続記事
「日本の大学に、『教養』を取り戻そう」http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232963/
「頭がいいけど『世間』に弱い」理系の大学生http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232978/?P=1

どういう趣旨で設立されたかというと、
>「大学に教養教育は要らないのではないか? むしろ専門教育を重点化すべきではないか」という進められ方が昨今の大学教育で行われてきた。
>これからの「教養教育」とはどうあるべきかを考えることです。理工系学生の持つべき教養とは何か、そしてもっと広く、これから社会を背負っていく、若い人たちにとっての教養とは何かについても、どんどん提案をしていきたい
とのこと。


専門科目は何かを行う際にその"何か"そのものを学び使えるようになる科目
教養科目というのは、その"何か"を実際により良く使うための付加価値を学ぶ科目
と、いうのが僕の中のイメージ。

>専門科目だけを徹底的に習得させると、たしかに学生たちは「できる人間」になります。でも、この「できる人間」とは、あくまで「決められた枠組み」で「できる人間」のことなんですね。
なので、極端な話になるがいわゆる"専門馬鹿"となってしまい、専門のことの解は求められるがそれをこの社会でどう使うか、社会で求められている専門の使い方はどうなのか、ということにはからっきしで"動かない優秀な道具"となってしまう。
そのために、教養を学び"自分で動く優秀な道具"となるべきではないのか。"象牙の塔"という言葉があるように、学問という塔の中にだけおらず、僕たちが生きるこの人間社会と融合させるべきではないか。

今までの理系は専門分野のみで現象などの"自然科学的解"を求めるだけで良かった。
しかしこの解なき時代に、今後"自然科学的解"だけでなく、人文科学や社会科学的(一般教養的)な面も考えて複合して社会に活かすことが必要となってくる。

例を上げると、原発。原発の道具的使い方だけでなくそれがどう社会に影響していくかのモラルなどの面も求められる。また、自然科学の説明を専門家以外に"伝達する能力"も必要とされる(専門家の話わかりづらくて理解させる気ないよね)。

「"一般教養"は理系に今後今まで以上に社会的に必要とされるが現状ではその能力が足りていない」「今後は文・理を分担して"それぞれの専門家"になるのではなく文理融合のリベラルアーツが求められる」という趣旨の記事でとても考えさせられました。

もちろん教養"だけ"でも意味ないですけどね。
専門は道具、教養は"より良い使い方"。もちろん理系だけに当てはまるわけではないがやはり理系に今まで以上に必要とされているのは確か。