2012年7月7日土曜日

理系に教養を!脱・専門馬鹿



東工大に新規設置されたリベラルアーツセンターの3人(桑子敏雄、上田紀行、池上彰)の対談連続記事
「日本の大学に、『教養』を取り戻そう」http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232963/
「頭がいいけど『世間』に弱い」理系の大学生http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232978/?P=1

どういう趣旨で設立されたかというと、
>「大学に教養教育は要らないのではないか? むしろ専門教育を重点化すべきではないか」という進められ方が昨今の大学教育で行われてきた。
>これからの「教養教育」とはどうあるべきかを考えることです。理工系学生の持つべき教養とは何か、そしてもっと広く、これから社会を背負っていく、若い人たちにとっての教養とは何かについても、どんどん提案をしていきたい
とのこと。


専門科目は何かを行う際にその"何か"そのものを学び使えるようになる科目
教養科目というのは、その"何か"を実際により良く使うための付加価値を学ぶ科目
と、いうのが僕の中のイメージ。

>専門科目だけを徹底的に習得させると、たしかに学生たちは「できる人間」になります。でも、この「できる人間」とは、あくまで「決められた枠組み」で「できる人間」のことなんですね。
なので、極端な話になるがいわゆる"専門馬鹿"となってしまい、専門のことの解は求められるがそれをこの社会でどう使うか、社会で求められている専門の使い方はどうなのか、ということにはからっきしで"動かない優秀な道具"となってしまう。
そのために、教養を学び"自分で動く優秀な道具"となるべきではないのか。"象牙の塔"という言葉があるように、学問という塔の中にだけおらず、僕たちが生きるこの人間社会と融合させるべきではないか。

今までの理系は専門分野のみで現象などの"自然科学的解"を求めるだけで良かった。
しかしこの解なき時代に、今後"自然科学的解"だけでなく、人文科学や社会科学的(一般教養的)な面も考えて複合して社会に活かすことが必要となってくる。

例を上げると、原発。原発の道具的使い方だけでなくそれがどう社会に影響していくかのモラルなどの面も求められる。また、自然科学の説明を専門家以外に"伝達する能力"も必要とされる(専門家の話わかりづらくて理解させる気ないよね)。

「"一般教養"は理系に今後今まで以上に社会的に必要とされるが現状ではその能力が足りていない」「今後は文・理を分担して"それぞれの専門家"になるのではなく文理融合のリベラルアーツが求められる」という趣旨の記事でとても考えさせられました。

もちろん教養"だけ"でも意味ないですけどね。
専門は道具、教養は"より良い使い方"。もちろん理系だけに当てはまるわけではないがやはり理系に今まで以上に必要とされているのは確か。

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