2012年10月4日木曜日

「私は○○をしています!」と胸を張って言うことに後ろめたさはないのか


自信というものがある。それが僕には欠けていると言われることがままある。
実際のところ、「根拠のない自信」は欠けている、と認識している。

今回縁があってあることに参加することになりそうなのだけど、参加者を見たら名前を聞いたことがあったり実際会ってすごいなぁと思った同年代の人がチラホラ。
プロフィールを見てみると、案の定それを裏付けるような『遊び』ではなく本当に問題意識や自己を持って何か活動をやっているようだ。

そして、ふと自分もプロフィールを書くことを想定して思った。
僕には書けるようなことがない。
いや、厳密にはあるにはある。が、書くに当たって「本当にこれは書いていいのか?書けるほどその活動を本気でやっていたのか?結果は出せたのか?所属しているだけなのではないのか?」そういった疑問から、プロフィールとして記述することに後ろめたさと抵抗を覚えてしまい書くことに躊躇する。

とりあえず中身が伴わなくても書いておき、そのうち中身を伴わせたら良いという考えの人もいるだろうがそういうことは「相手を騙している」ようでなんとなく嫌だ。


ただ、これは本当に「自信が欠けている」なのだろうか。
正直なところ、似たようなカテゴリーにいる同年代の大多数よりは出来ていると自負はしている。が、前述のような「本当にスゴイ人」より劣ってはいる。
あくまで、中レベルの上なだけで、上レベルではない、その壁を越えられてない。そんな自己認識。
自分の行動の比較は”上レベル”なので「できていない」と書く。

前述のプロフィール云々を正確に書くならば「書けるほど(スゴイ人のように)その活動を本気でやったのか?(スゴイ人のような)結果は出せたのか?」と、なる。
『足るを知る」なだけでこれははたして自信が欠けているとは違うのではないだろうか。
上を目指して歩いているのならば、上を見て頑張って追いつこうという気持ちは当たり前である。

そして、どうしてもこのような認識になってしまうならば、自分の後ろめたさを隠して(自分にとっての)嘘を吐くのは多かれ少なかれ、その中身のないものに満足してしまい、この向上心に繋がる認識を薄れさせてしまうことになるのではないのか。

だから、ちゃんと歩みを止めていないのであれば、「自分なりの、後ろ向きではない自己認識」をしているだけで「発言に自信が無い」と言われようと変に気に病む必要は無いのだと思う。
また「○○をしている」と後ろめたさ無しで言えるのであれば、他人に「やっていることの中身がない」と言われようと自分は自分なりの根拠を持って言っているので、それも気に病む必要はないともいえるのではないだろうか。

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